事件後の騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 03:13 UTC 版)
事件後、寛永9年(1632年)、秀宗正室・桂林院の三回忌法要の際、大風によって金剛山正眼院本堂の梁が落下し、桜田玄蕃が圧死した。その後も山家清兵衛の政敵たちが海難事故や落雷によって相次いで死亡した。そこで、宇和島藩家老の神尾勘解由が、宇和島城の北にある八面大荒神の社隅に小さな祠を建てて、児玉(みこたま)明神とした。しかしその甲斐なく、秀宗は病床に伏し、秀宗の六男徳松、長男左近太夫宗實が早世、次男左京亮宗時が病没した。災難は家中にとどまらず、飢饉や台風、大地震が相次いだ。このことが「清兵衛が怨霊となり怨みを晴らしているのだ」と噂になったため、秀宗は承応2年(1653年)に檜皮の森に神社を建立、京都吉田家の奉幣使を招いて同年6月23日と24日に亘って神祗勘請を行い、「山頼和霊神社」とした。そして享保16年(1731年)に5代藩主伊達村候によって、清兵衛邸跡に今日の和霊神社を創建し、清兵衛の霊を慰めた。
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