亀山水力発電所の建設
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日露戦争が勃発した1904年(明治37年)、広島電灯の電灯数は6000灯を越えた。広島電灯では需要増加にあわせて逐次既設大手町発電所を拡張する方針を採り、まず1907年(明治40年)7月、第2次拡張として200キロワット発電機1台を増設する。1910年(明治43年)8月には建屋の改築を伴う第3次拡張を実施し、古い30キロワット発電機2台・60キロワット発電機1台を500キロワット発電機1台へと更新。1912年(明治45年)1月には最後の拡張となる第4次拡張で500キロワット発電機1台を増設した。 需要増加の中、広島電灯では自社での水力発電を推進するようになる。その第一段階が太田川電力株式会社発起人からの水利権買収である。太田川電力は木村静幽ら7人を発起人として計画されていた電力会社で、1906年(明治39年)11月に太田川にて水利権を取得する。広島電灯では太田川電力が会社未成立の段階でその水利権を5万円にて買収することを決定し、1908年(明治41年)1月水利権移転の許可を得た。2年後の1910年(明治43年)2月26日、開発資金を得るべく資本金を30万円から一挙に130万円へと増資する。そして同年10月、広島市の北方にあたる安佐郡亀山村大字今井田(現・広島市安佐北区可部町今井田)にて水力発電所建設に着手した。 着工から2年後の1912年7月8日、太田川に完成した亀山発電所が運転を開始した。発電所出力は大手町発電所の1,200キロワットの倍近い2,100キロワット。送電設備として、広島近郊の安佐郡三篠町と呉市内の2か所に新設された変電所との間を繋ぐ11キロボルト送電線が整備された。亀山発電所の運転開始を機に大手町発電所を休止(予備設備に)としたことから発電費が減少するため、広島電灯では電灯料金を15パーセントも引き下げた。亀山発電所建設に伴う料金改定は同年5月に実施。値下げは1910年11月に8燭灯・10燭灯を月額10銭ずつ引き下げて以来のもので、10燭灯の場合月額1円から85銭への値下げとなっている。料金引き下げと、1911年から順次広島市周辺地域へと供給区域を拡張したことが重なって、以後電灯の普及が本格化することになる。その結果、1910年に1万5000灯余りであった広島電灯の電灯数は1912年までの2年間で倍増し、翌1913年(大正2年)には5万灯を突破するまでになった。 亀山発電所運転開始を機に、広島電灯では従来広島呉電力に譲って手掛けていなかった動力用電力供給の部門にも参入した。さらに広島呉電力の地盤である呉方面にも進出を果たす。呉では呉鎮守府各庁舎や関係部署に対して供給を開始するとともに、各地で電柱建設工事を急いだが、間もなく逓信省や広島県の介入によって呉方面における競争は抑止される。1912年8月以降、広島電灯は海軍関係を除いて呉市内と吉浦町における電灯・電力供給を行わない、広島呉電力に対して呉市で200キロワット、広島市で100キロワットを供給する、という条件で広島呉電力と妥協する道を選んだ。なお、1900年から続いていた広島呉電力から広島電灯に対する電力供給契約は1912年12月に解約されている。
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