乗機の引き揚げと戦死の確定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 15:58 UTC 版)
「アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ」の記事における「乗機の引き揚げと戦死の確定」の解説
その行方は永らく不明とされていたが、1998年9月7日、地中海のマルセイユ沖にあるリュウ島(フランス語版)近くの海域で、サン=テグジュペリの名と、妻コンスエロの名(括弧書き)、および連絡先(c/o)としてニューヨークの出版社レイナル&ヒッチコックの名と所在地(#作品にあるように、1943年に「星の王子さま」を初出版した版元)が刻まれた、ブレスレットとみられる銀製品がトロール船によって発見された。 同海域には沈船や墜落機の残骸が多数存在しているが、のちにサン=テグジュペリのものと確認されるF-5Bの残骸(車輪を含む左エンジンナセル)は、1950年代には地元のダイバーによりその存在を目視されていた。1982年、複数機種の残骸混在状態で写真撮影もされていたが、この海域は従前サン=テグジュペリの墜落現場候補とは思われておらず、詳しく調査されることはなかった。上記ブレスレットの発見を受けて、改めて広範囲な探索が行われた結果、2000年5月24日に上記残骸がサン=テグジュペリの搭乗機であることを確認。このことが2000年5月26日にマスメディアで報じられ、世界中に知られるところとなった。 遺産相続者の反対などで引き揚げはその後も行われていなかったが、2003年になって、仏米間の政治的な状況の変化も絡んで正式な回収許可が下り、前記の左エンジンナセルが引き揚げられ、さらに、広い海域に散乱していた多くの破片が数ヶ月かかって拾い集められた。回収物は丹念に付着物を取り除き、洗浄して、左ターボチャージャーセット外板に刻まれたロッキード社の記帳番号により彼の乗機であることが確認され、戦死が確定した。なお、本人の遺骨は未だ見つかっていない。 2008年3月15日付『ラ・プロヴァンス(電子版)』(プロヴァンスのローカル紙)に、当時Bf109のパイロットだったホルスト・リッパート(Horst Rippert)曹長がサン=テグジュペリの偵察機を撃墜したとする証言が公開された。リッパートは騎士鉄十字章を授与されたエース・パイロット(撃墜数28機)であり、戦後は西ドイツでテレビ局のスポーツ記者として活躍していた。リッパートは「もしサン=テグジュペリだと知っていたら、絶対に撃たなかった。サン=テグジュペリは好きな作家の一人だった」と悔やんだ。 リッパートの証言は他の目撃証言や記録とも合致しており有力視されているが、一方で引き揚げられた機体は高速で海面に衝突したことを伺わせるものの弾痕を確認できず、未だ謎が残されている。以下の状況証拠から、サン=テグジュペリ自身が起こした事故又は自殺の可能性も指摘される。 サン=テグジュペリは人一倍の飛行に対する情熱の持ち主であった反面、複雑な操縦を求められる機体を扱えるほどの忍耐力がなく、規律違反の常習犯であり、適性があるパイロットであるとは言い難かった。事実、サン=テグジュペリは過去何度も事故を起こしている。 アメリカにわたって以来、サン=テグジュペリは塞ぎ込んでおり(『星の王子さま』はこの時期に執筆している)、失踪の8日前にドイツの航空戦隊が自分たちに向けてサン=テグジュペリが自暴自棄になったかのように突っ込んでくるのを目撃している(このときドイツ人パイロットらは発砲せずに見逃している)。
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