中国共産党での活動
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1931年(民国20年)冬に成仿吾は帰国し、中国左翼作家聯盟に加入した。12月、鄂豫皖ソビエト区に入り、鄂豫皖省委宣伝部長、ソビエト文化委員会主席などを務める。1934年(民国23年)1月、瑞金での第2回全国ソビエト代表大会に参加して中華ソビエト共和国中央政府委員に当選し、中共中央党校教員なども兼任した。10月、長征に参加し、その途中で幹部団政治委員に任命されている。1935年(民国24年)10月、延安に到着してから中共中央党校高級班教員・教務主任に任ぜられた。 日中戦争(抗日戦争)勃発後は、陝北公学校長、華北聯合大学校長、晋察冀辺区参議会議長、共産党晋察冀中央局委員などの要職を歴任した。1945年(民国34年)4月、中国共産党第7回全国代表大会代表に選ばれている。1948年(民国37年)6月、華北大学副校長に任命された。
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中国共産党での活動
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1932年(民国21年)3月、丁玲は正式に共産党に加入した。1935年(民国24年)5月、南京において国民政府当局に逮捕され、しばらく収監されてしまう。翌1936年(民国25年)8月、釈放されて陝西省保安県(現在の志丹県)で長征中の紅軍に合流したが、この収監の経緯のため、丁は転向と出産に係る疑惑に生涯悩まされることになる。紅軍に合流後、成仿吾らと中国文芸協会を組織し、丁が主任となった。1937年(民国26年)2月、延安に到着し、中国工農紅軍中央警衛団政治部副主任に任ぜられている。同年3月、『二万五千里長征記』の編集作業にも参加する。7月には呉奚如と戦地服務団を組織し、翌月、丁は西北戦地服務団主任に任ぜられた。1939年(民国28年)、陝甘寧辺区文芸協会副主任に任ぜられた。1941年(民国30年)5月、『解放日報』文芸副刊主編となっている。 日中戦争(抗日戦争)期間中の丁玲は、上述の国民政府に収監された自身の体験を織りこみ、社会動乱の中で本来は自身の責任でない「罪」を負った女性たちを描いた、と江上幸子は評している。しかし丁はこれら女性たちが糾弾されることのない社会の実現を切望したにもかかわらず、そのような女性たちの存在を「恥」とみなす上層部により、この時期の作品はかえって「反共産党の毒草」と批判されることにもなった。
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