中国共産党との統合と内モンゴル自治区の樹立
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「ハーフンガー」の記事における「中国共産党との統合と内モンゴル自治区の樹立」の解説
ハーフンガーなどの内モンゴル民族自治運動独立リーダーたちはモンゴル統一の夢が無残に砕かれ、内モンゴルに戻ってから、独立に近い内モンゴルの自治運動を展開していた。1946年1月に東モンゴル自治政府が発足。ハーフンガーは秘書長に任命された。発足大会で可決された「東モンゴル人民自治政府施政綱領」には「民族の自治、自決の支持、独自銀行の設立、通貨の発行、独自の軍隊」などの旨が掲載されていた。 東モンゴル自治政府の成立は外モンゴルの独立を承認したばかりの国民党政府にとって、かなり衝撃であった。東モンゴル自治政府の成立がもはやソ連と外モンゴルの「陰謀」ではないかと見なされ、国民党政府はそれを認めなかった。一方、国民党政府との内戦を控え、勝算をまだ把握していなかった共産党側は「統一戦線」を武器に国民党への包囲網を形成させ、内モンゴル民族自治運動を共産党陣営へ導くために、東モンゴル自治政府の成立へ祝電を送り、「民族自治権の尊重」と「国民党政府の大漢民族主義に反対」を共産党の将来施策として唱えた一方、独立をやめ、区域自治にとどまるようと内モンゴル民族自治運動に説得した。その上、延安からウランフを東モンゴル地方へ派遣、内モンゴル民族自治運動を牛耳るよう中国共産党指導部は策案していた。 1946年4月3日の内モンゴル自治運動の統合大会は、東西内モンゴル自治運動が合併、東モンゴル自治政府の解散、内モンゴル人民革命党の活動停止などの決議を採択したことで、内モンゴル民族自治運動は事実上中国共産党に握られていた。また、内モンゴル人民革命党の活動停止後のハーフンガーも同年に中国共産党に入党。1947年5月1日に王爺廟で内モンゴル自治区の樹立を宣言、ウランフは内モンゴル自治区の主席に、ハーフンガーは内モンゴル自治区の副主席に選ばれた。
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