中国共産党と中国国民党への参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:35 UTC 版)
「毛沢東」の記事における「中国共産党と中国国民党への参加」の解説
1921年7月23日、毛は中国共産党の第1回党大会に出席する。1923年6月の第3回党大会で中央執行委員会(現在の中央委員会)の委員5人のうちの1人に選ばれた。この第3回党大会では、コミンテルンの指導の下で「国共合作」の方針が決議された。9月に毛は共産党中央執行委員会の指示と国民党の委託を受けて長沙に赴き、国民党の湖南支部を組織した。 1924年1月の第1回中国国民党全国代表大会に出席し、国民党中央執行委員会の候補委員に選出された。同年に毛は国民党上海支部の幹部(組織部書記)となった。毛は指導者の地位を生かして労働組合のオルグに力を注ぐ。毛はしばらくの間、共産党が革命の重要な都市として重視した上海に残った。しかしながら、党は労働組合運動を組織し、民族主義の同盟国との関係を築くという大きな難題に遭遇した。党は困窮し、毛は革命に幻滅を感じて韶山に戻ってきた。自宅にいる間の1925年に上海と広州で発生した暴動を聞いたことで、毛の関心は蘇った。毛の政治的野心は蘇り、第2回国民党全国代表大会の議会の準備に参加するため、国民党の本部がある広東へ向かった。1925年10月に毛は国民党中央宣伝部長代行となった。 1926年12月、長沙で開催された労働者と農民の代表大会に出席するために湖南省に戻っていた毛は、翌年1月から2月にかけて湖南省における農民運動の報告書を作成した。これは「農民に依拠し、農村を革命根拠地とする」という毛の革命理論の構築の初期段階と考えられている。
※この「中国共産党と中国国民党への参加」の解説は、「毛沢東」の解説の一部です。
「中国共産党と中国国民党への参加」を含む「毛沢東」の記事については、「毛沢東」の概要を参照ください。
- 中国共産党と中国国民党への参加のページへのリンク