中国共産党との接触
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「エドガー・スノー」の記事における「中国共産党との接触」の解説
1933年、日本への新婚旅行を終えると北京に行き、燕京大学非常勤教員となった 。北京大学のロシア語教授だったセルゲイ・ポレヴォイに共産党との接触を依頼した。 日本による中国侵略についての本『極東戦線』を執筆したほか、中国文学の短編集を編集翻訳した。燕京大学でマルクス主義の基本文献を読み、学生の抗日運動一二・九運動の指導者と友人になり、共産主義地下組織によって毛沢東ら本部に招待された。 パール・バックやジョン・フェアバンクと交流。1935年の日本による中華民国北部侵攻に反感を抱き、「抗日戦線の鍵は中国共産党にあり」、と考えて党本部への取材を求める。 1936年にスノーは共産党の支持者であった宋慶齢から紹介状をもらい、長征後の共産党が本拠としていた西安に向かった。国民党は共産党支配地区を遮断していたが、周恩来と会見し「反蔣抗日」から「逼蔣抗日」への転換を共産党に要望して五・五通電 (停戰議和一致抗日通電) により実現させていた張学良が、スノーの陝北(中国語版)入りに協力した。そこでアグネス・スメドレーの友人であった馬海徳(Ma Haide、ジョージ・ハテム)と知り合う。長征により兵力の大半を失い、抗日戦線のための中国人の団結を訴えたかった毛沢東との利害とが一致し、スノーは中国共産党についての報告を行っていく。スメドレーも長征以前の共産党の内部事情について報道していたものの、スノーのように長征以後の共産党幹部と身近に接したものは他にいなかった。毛沢東はスノーに自分の半生を語り、書くようにすすめた。スノーはその時点では知らなかったが、毛沢東はインタビューに非常に用心深く、何の制約もないと主張したにも関わらず、毛沢東のリクエストに応じてスノーは多くの修正をせざるをえなかった。 スノーは北京に戻ると@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}必死で[要出典]執筆し、チャイナウィークリーレビューに短文を発表したあと、1937年に『中国の赤い星 (Red Star Over China) 』をロンドンで出版した。これは毛沢東を中心とした中国共産党を好意的に取り上げ、将来の共産党の隆盛を予見するものであった。スノーは毛沢東は政治的改革者であり、1920年代のように軍事的また革命的ではなくなっていると報じた。この本は販売後4週間で12000部が売れた。この本は、中国での共産党の初期の運動の入門としてスタンダードになった。
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