中上家と新鹿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 14:57 UTC 版)
作家・中上健次とその家族は、1980年(昭和55年)1月にアメリカ合衆国から日本に帰国し、新鹿町の湊集落で家を借り、有機農業をしながら暮らし始めた。中上健次が帰国した時になぜ自宅のある東京や故郷である新宮ではなく、新鹿町に住むことを決めたのかは不明である。この時中上健次は34歳で、やることなすことに齟齬(そご)を起こしていたといい、苦悩を抱えた日々だったが、新鹿の海や川などの自然に癒されていたようである。新鹿での生活中、中上健次はたびたび新宮へ通い、飲み明かしていた。 新鹿での農業は借家近くの山で土地を購入し、ジャガイモやトウモロコシなどを栽培し、本格的な有機農法であったが、娘の中上紀によると中上健次は次第に畑に通う頻度が下がり、三日坊主であったという。ペットとして「じゅっとく」と名付けた紀州犬を飼育していた。当時小学3年生だった中上紀は、今でも新鹿小学校の校歌を覚えていると2012年(平成24年)のブログに書いている一方、「私の中ではもう、ほとんど神話の世界と化しています。」ともしている。中上紀にとっては何度も転校を経験した上、新鹿町に来る前はアメリカの学校に通っていたため言葉が通じず友人が1人しかできなかったが、新鹿小学校に転入して初めて外で友人と遊ぶことを楽しいと感じたという。2014年(平成26年)11月2日に熊野市文化交流センターで熊野古道の世界遺産登録10周年記念にパネルディスカッションが開かれた際、中上紀はパネラーとして招待され、新鹿時代の思い出を語った。 中上家が新鹿町で生活したのはわずか半年間(より正確には1月から8月まで)であったが、この半年間は中上家の人々に大きな影響を与えた。中上健次は新鹿での暮らしを元に『熊野集』所収の短編作品「桜川」を執筆し、隣接する二木島町で発生した熊野一族7人殺害事件を元に映画監督の柳町光男が監督した『火まつり』の脚本も手掛けた。また中上紀は『夢の船旅 父中上健次と熊野』を上梓し、その中で新鹿での生活に言及している。以下に、中上父娘の新鹿生活を描写した一節を引用する。 熊野市から大泊を通って尾鷲への道ではなく海沿いに狭い道に入り、徐福上陸の碑があるあたりに、ほどよい大きさの桜が並び、さらに新鹿の入り口から道におおいかぶさるように桜が続く。新鹿に咲いた桜の花は意味でも象徴でも暗喩でもなく、むきだしになった私の想いの名づけようのないかたまりだった。それからというもの、行くさきざきで桜の花が眼についた。 — 中上健次、「桜川」 新鹿は光で溢れていた。山の水がつくる、今までに見たどの緑よりも濃い緑があった。しかし私は戸惑いはしなかった。台風のあと、壁のように盛り上がって砕ける波の碧さを見て怖いと思うより美しいと感じることとそれはどこか似ているかもしれない。熊野の心で満たされている自分がそこにいた。 — 中上紀、「波の輝きよりも濃く」 中上健次の足跡をたどって新鹿町を訪れる者もいる。詩人の河津聖恵は中上健次の『紀州 木の国・根の国物語』を追想し、新鹿から和歌山県白浜町までを旅し、その体験を綴った詩集『新鹿』を出版した。中上健次と小学校から高等学校まで同じ学校に通った詩人の田村さと子は、中上健次との思い出などを綴った『新宮物語』を出版する準備のため、中上健次が借りていた家を2016年(平成28年)6月25日に訪問した。
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