下マトル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 15:17 UTC 版)
下マトル(下ナンマトル)には、シャウテレウル朝の歴代の王が居住したと伝えられるパーンケティラ (Pahnkedira) がある。パーンケティラは「宣言を下す場所」を意味し、シャウテレウルの住居や水浴び場、10棟の食糧貯蔵庫などがあった場所であり、寺院 (Temple) の遺構も含まれる。寺院は雷神ナーンシャペもしくは精霊ナンキエイルムァーウ (Nankieilmwahu) を祀ったと考えられている。年代測定の結果、島そのものは10世紀後半の建設で、その計測結果がシャウレテウル朝の成立期の根拠となっている。その後、13世紀後半、15世紀後半に段階的に拡張期を迎えたと認識されている。 パーンケティラ建設にあたり、マトレニーム、ショケース、キチ、コスラエ(または風上のカチャウ)から来た代表がそれぞれ四隅を担当し、それぞれの国の運命と結び付けられた。ここからは、王都にしばしば見られる、世界の中心であるとともに世界の構造を表すという発想が読み取れるという。なお、この思想は四隅のいずれか崩れた時には、担当した代表の属する地域の人々も滅ぶという伝承に繋がったらしい。そして、その四隅のうち、ショケース代表が建てたとされる部分が、何らかの理由で1910年9月に砕けた。ショケースの人々がドイツ知事らを殺し、ショケースの反乱 (Sokehs rebellion) を起こしたのはその翌月のことであった。一般にショケースの反乱は、ドイツの支配強化に反対し、ポンペイ島の独立を取り戻そうとした動きとされるが、この反乱の結果、ショケースのナーンマルキは殺され、住民たちも400人以上が流罪になった。遺跡の損壊と反乱の因果関係はともかく、ミクロネシア連邦当局による世界遺産推薦書でも、これらの出来事は並べて書かれている。 パーンケティラに隣接していたのがワシャーウ (Wasahu) で、「あの場所」を意味する。それは捕虜や重罪人を木槍で突き殺した刑場であり、それゆえに本来の名ではなく「あの場所」という婉曲な名前で呼ばれるようになったという。 イテート (Idehd) は毎年祭祀が行われていた島である。その祭祀では、海に通じた穴へと殺したカメの臓物を捧げ、現れたウナギの動きをもとに、懺悔の適否や吉凶を判断したという(ウナギは神の使いとされた)。なお、殺したカメはイヌの肉とともに焼かれて食べられたが、その際に出た灰は小山状に積み重ねられており、これが年代特定に役立った。それをもとにスミソニアン研究所は1258年(± 50年)という年代を1963年に公表したが、それがナンマトルに関する最初の放射性炭素年代測定の公表となった。現在までの更なる測定で、13世紀初頭から15世紀半ばに至る様々な年代が析出されている。このイテートでは1000年から1200年に祭祀が開始されたと考えられており、それが首長制成立期を推測する根拠となっている。また、シャウテレウル朝で行われていたナーンイショーンシャップ信仰の祭祀は、1200年以降にイテートで行われていたと考えられており、この時期が王朝の発展期と重なるとされている(ナーンイショーンシャップはウツボの化身とされる神)。 トロン (Dorong) には海水を引き込んだ池があり、ハゴロモガイ(フネガイ科)をはじめとする魚介類をとり、シャウテレウルに献上するための場であった。伝承では、池の中央の奥底は外海に繋がっているとされたが、現在では塞がってしまっている。 パーンウィ (Pahnwi) は防波堤状の人工島だが、現在ではパーンウィA、Bと二つに分けて捉えられている。前出の推計90トンの石は、この南西端に存在する。パーンウィは「ウィの木の下」を意味し、地元で「ウィの木」と呼ばれる植物にちなんで付けられた名前だが、これはゴバンノアシ (Barringtonia asiatica) のことである。司祭者たちの埋葬地とされていた島であるとともに、イショケレケルの最初の上陸地と伝えられている。 上陸当初のイショケレケルは友好的に装ったので客人として遇されたというが、その時に客人として通された場所がケレプェル (Kelepwel) で、333人の仲間とともに逗留したという。
※この「下マトル」の解説は、「ナンマトル」の解説の一部です。
「下マトル」を含む「ナンマトル」の記事については、「ナンマトル」の概要を参照ください。
- 下マトルのページへのリンク