上田作之丞と拠遊館の人脈
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「黒羽織党」の記事における「上田作之丞と拠遊館の人脈」の解説
上田作之丞(1788年 - 1864年、諱は貞幹、後に耕と改めた)は、加賀八家の一つ本多家の徒士頭上田貞固(250石)の次男である。兄八百記が勤務中に上役と口論して改易となったため、作之丞は母と暮らし、金沢城下町市内に私塾「拠遊館」を開塾して素読・算術を教えた。文化6年(1809年)本多利明が金沢に来訪すると、入門して算術や経済について学ぶ。本多の重商主義的な国産増殖・交易論は上田作之丞に大きな影響を与えた。上田は本多からその才を愛され、娘の婿に迎えられようとしたが、これは固辞している。利明が去った後は、弟の養子先の厄介人として藩校明倫堂に入学して優秀な成績を修めたが、実用に益なしとして退学し、独学の末に小松習学所の教授となり、家老本多家の儒臣を勤めた。しかし文政9年致仕して浪人となり、引き続き拠遊館で町人や武士に実学を教えた。門弟は一時数百人に上り、本多家を致仕したのも、その影響力を恐れられたために讒言にあったためだという。 上田の学問の特徴は、当時の正統的学問朱子学を基本とした藩校明倫堂には対照的に、韓非子・老子・朱子など古典の中から、現実の状況に合致する部分のみを教授し、「日用事実」に基づく格物窮理を重んじる徹底した実学志向にある。このため「鵺学」と称され、上田自身もこの称を認めていた。その思想は農本主義を主軸とし、商人を軽んじる従来の儒学の延長上にありながらも、貧民救済を説きつつ、米や国産品・肥料などを藩直営にすることを主張していた。論者によって上田は農本主義者・重農主義者・抑商論者と見なされることもあるが、決して商業を否定している訳ではなく、士農工商を四季の運行になぞらえ、小生産者や小商人の自立的営為をむしろ賞賛していた。ただし上田は私欲に走る都市部の「姦商」の振る舞いには否定的であり、株仲間による運上銀は、商人の利益追求(すなわち私欲)によるものとして強く批判し、その著『讝語秘策』で株仲間のことを「姦猾之徒」とまで痛罵している。この意味で株仲間を解散させた奥村政権と共通する部分もあったが、奥村政権が商業を抑制しながらも、結局銭屋ら大商人と癒着して御用銀で財政立て直しを画策したのを激しく批判し、逆に農村における商人機能の必要性や在郷商人の育成を提唱していた。ただし江戸期一般の経世学者と同様、上田も物価・価格システムの本質的な理解までには及んでおらず、物価の高騰を商人の私欲によるものとして理解していた点に限界があった。 上田が主宰した拠遊館では、政治や経済に関する時事問題を討論させるのが特徴で、町民にも門戸を開いていたほか、上級藩士の子弟の中にも教えを請うものが多く、塾生は数百人にのぼった。長連弘をはじめとする上田塾の上級藩士らは、総じて天保の藩政改革を担った奥村栄実に批判的であり、奥村の死後にいよいよ藩政の主導権を握ることとなる。
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