上堰・下堰・御堰の建設
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仙北平野東部の奥羽山脈西麓地域における未墾地開拓の歴史はきわめて古く、江戸時代前・中期にさかのぼる。扇央部に広がる原野・採草地は、水量豊富な玉川の水を利用して開墾が進められた。玉川に取水した当時の主要な用水路としては上堰(白岩・豊岡・横沢)、下堰(白岩・豊川・横沢)があり、さらに四ケ村堰(豊川)、若松堰(神代)、黒倉堰(白岩・神代)、鶯野堰(長野)、高瀬堰(四ツ屋・花館)、松倉堰(四ツ谷、神宮寺)などがあった。ただし、これらは主として扇端部の灌漑には利用されたものの、扇頂部や扇央部の砂礫地のほとんどは依然放置されたままであった。 この扇央部の山林原野を開墾することは藩政期を通じての念願であった。「上堰」完成から約130年後の文政7年(1824年)、ようやく久保田藩の藩主佐竹氏が開墾事業に乗り出した。これは、角館蘆名氏の遺臣蓮沼仲の進言と計画によるもので、藩主佐竹義厚による裁可のもと藩営事業として「上堰」の東側に白岩から六郷まで約33キロメートルにおよぶ用水路「御堰(おせき)」を建設し新田開発と古田の補給水として利用しようというものである。これには、藩財政にたずさわっていた高橋新兵衛と、当時周辺からは富裕な村として知られていた六郷村の資産家数名が協力した。 文政7年から抱返神社上流で玉川を横留めする工事を4回おこなったが、そのたびに洪水によって流されてしまったのでこれを断念し、結局、阿仁銅山から当初80人、のち180人の坑夫を動員して数か所におよぶ隧道を掘削することとした。隧道につらなる用水路は2本で、1本目は仙北郡南端に近い野中村・野荒町村(いずれも現美郷町)におよび、2本目はその西側を走り、六郷川内池村(現美郷町)に至る長大なものである。最終的には工事開始から10年近い歳月と巨額の費用を投じて天保4年(1833年)6月に完成した。開田は、当初1,000町歩を見込んでいたが、古田への補給水が主となり新規開田は約200ha(ほぼ200町歩)にとどまった。これが田沢疏水の始まりである。 しかし、苦難の末に完成した「御堰」の水路も、毒水被害、天保の大飢饉(1835年-1836年)による粗放管理、度重なる洪水などのため次第に漏水・決壊・埋没がみられ、安政元年(1854年)の大洪水を機にほとんど使用できない状態となってしまった。さらに、明治11年(1878年)の大洪水で白岩五社堂の隧道が崩壊し、諸河川から水があふれて堤防・樋管も損傷して疏水としての機能を完全に失った。 明治37年(1904年)、秋田県は「御堰」復旧の調査に着手し、現地踏査をおこなった技師小野常治は秋田県知事椿蓁一郎に対し、2,400町歩の灌漑が可能であると復命し、復旧工事費は15万円とされた。また、翌38年(1905年)には白岩村から金沢西根村に至る2,092町歩の開墾と大曲町周辺への726町8反5畝への用水補給を見込んだ計画書が岡喜七郎知事に提出されたが実現には至らなかった。 明治45年(1912年)には旧藩主の嫡男であった侯爵佐竹義生が「御堰」復旧と玉川水利使用許可を得て復旧に奔走したが実現せず、また、大正9年(1920年)には東北拓殖株式会社が資本金1,000万円で東京市京橋区に設立され、そのなかで再度「御堰」復旧も検討されたが、大正12年(1923年)の関東大震災の影響などもあって着工には至らなかった。
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