上場から「横浜松坂屋」への改称〜百貨店の閉店まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:14 UTC 版)
「野澤屋」の記事における「上場から「横浜松坂屋」への改称〜百貨店の閉店まで」の解説
1960年(昭和35年)に東京証券取引所に上場し、1961年(昭和36年)には1部上場となって資金調達を行い、1963年(昭和38年)の増床などの設備投資を行ったが、横浜高島屋などとの競合で業績が伸び悩んで株価が有名百貨店としては低迷し、1971年(昭和46年)頃から白木屋の買収に失敗した横井英樹が株式の買占めを始めた。 この買占めに対抗するため、株式会社野澤屋呉服店の設立時からの大株主で1968年(昭和43年)から共同配送を行っていた松坂屋にホワイトナイトとして防戦買いを依頼したため、松坂屋が筆頭株主となってその傘下に入り、1974年(昭和49年)に店名をノザワ松坂屋と変更すると共に、伝統の「入り九」マークは外して、松坂屋の「いとう丸」マークに代えた。この間、1970年(昭和45年)9月9日には店内で火災が発生。従業員1人が死亡した。 1977年(昭和52年)には伊勢佐木町における最大のライバルだった松屋が横浜店を閉鎖して撤退したため、その土地建物を買収して西館として増床して既存の本館との間に連絡橋を架設、その際に横浜松坂屋とし、伝統ある野澤の屋号も百貨店からは消えることとなった。 こうした増床などで横浜高島屋など横浜駅周辺の競合店に対抗し続け、1991年(平成3年)2月期にピークとなる売上高約300億円を上げたが、同期を含め、1984年(昭和59年)2月期から25年連続で営業赤字が続いた。1995年(平成7年)に西館の売場を閉鎖してJRAエクセル伊勢佐木(場外勝馬投票券発売所)に賃貸して赤字のカバーを図ろうとしたが、地元の反対などで2000年(平成12年)まで実現が遅れた。2005年(平成17年)2月期には売上高が100億円を下回り、2008年(平成20年)2月期には売上高約87億円で、高島屋横浜店(売場面積55,747m2)の1,613.13億円の18分の1以下、そごう横浜店(売場面積74,846m2)の1,116.54億円の12分の1以下と落ち込みに歯止めが掛からなかった。2003年(平成15年)2月の松坂屋の完全子会社化などのてこ入れをしたものの、累積赤字が2008年(平成20年)2月期に約22億円となり、店舗の老朽化に伴う耐震補強などで必要な約50-60億円の追加投資の回収や累積赤字解消の目処が立たないとして2008年(平成20年)10月26日で百貨店の営業を終了し、閉店した。 また、閉店前の同年9月1日に元子会社で横浜松坂屋ストアを経営していた野澤商事株式会社が大丸ピーコック、松坂屋ストア、横浜松坂屋ストアと合併してピーコックストアになって野澤の名称が消滅し、2009年(平成21年)1月1日付で株式会社横浜松坂屋が松坂屋本体に吸収合併され、株式会社野澤屋呉服店の設立から続いて来た法人も消滅した。
※この「上場から「横浜松坂屋」への改称〜百貨店の閉店まで」の解説は、「野澤屋」の解説の一部です。
「上場から「横浜松坂屋」への改称〜百貨店の閉店まで」を含む「野澤屋」の記事については、「野澤屋」の概要を参照ください。
- 上場から「横浜松坂屋」への改称〜百貨店の閉店までのページへのリンク