三島憲法裁判闘争と反憲学連の創出
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「反憲法学生委員会全国連合」の記事における「三島憲法裁判闘争と反憲学連の創出」の解説
1970年(昭和45年)11月25日、三島事件が起こる。三島由紀夫と楯の会の隊員4人は、市谷の陸上自衛隊東部方面総監部を占拠した。そして、自衛隊員に、「自らを否定する憲法」を打倒するために起ち上がるよう訴えたが、聞き入れられず、三島と楯の会学生長の森田必勝が自決した。この事件には学協のメンバー2名(古賀浩靖・小賀正義)も加わっていた。また、三島は全国学協の顧問でもあった。 この事件を機に、全国学協と日青協は、戦後体制打倒の目標を占領憲法に定め、「三島憲法裁判闘争」を展開した。三島事件を単なる刑事事件に終らせるのではなく、中曽根康弘防衛庁長官(当時)らを証人として召喚し、「占領憲法自体を裁く裁判」とすることを狙いとしたものであったが、1年有半に渡って行われた裁判ではこの狙いは果たせず、「(三島事件は)反民主主義的行為である」との判決理由により、事件関係者3名が4年間の懲役に処せられる結果となった。裁判闘争の敗北によって学協の組織全体を大きな敗北感が覆うことになった。 1973年(昭和48年)、全国学協は路線対立、組織分裂を迎える。学協の中央執行部を中心とするグループが「自立草莽・実存民族派」路線と「反米帝・民族解放」路線を採択し、上部団体である日青協を除名した。 「自立草莽・実存民族派」路線とは、かつての日共転向組の鍋山貞親や佐野学らのように左翼民俗学の「常民論」に基づき、民衆の天皇仰慕の情念を革命の手段として利用する戦術であった。また、「反米帝・民族解放」路線は、反米路線によって、第三世界、例えばPLO等との連帯共闘を主張するものであった。そして、彼らは、副島種臣によるマリア・ルス号事件における奴隷解放や戦後のインドネシア独立戦争に参加した日本兵の行為を「日本人民としての行為」とし肯定しつつも、「日本帝国主義を打倒する」として、これら以外の近代日本の歩みを否定する方針を採った。 一方、同グループ以外の学生たちは、従来の「反YP論」を止揚した「反憲・民族自立路線」を採択し、1974年(昭和49年)3月日本青年協議会の下に新たに反憲法学生委員会全国連合(略称は「反憲学連」)を結成した。 「反憲」路線とは、三島事件を「三島義挙」と位置づけ、その精神を継承し、占領憲法をこそ戦後体制の象徴と捉えて、全ての政治運動を反憲運動に収斂させる方針を言う。また「民族自立」路線とは、民族の〈原像〉に基づき、戦後・近代がもたらしたとする「擬制秩序」を解体し、「真正国家」創出を目指すこととされる。 ちなみに「民族自立」の「自立」とは、元々は吉本隆明の言葉で、「啓蒙」や「外部からのイデオロギーの注入」という次元でしか「思想」を捉えることのできない近代知識人の限界を乗り越え、思想を内在的に発想していく営為のことである。吉本にとって、“自立”とは、大衆の存在を自らの思想過程のうちに繰り込むことであった(但し、反憲学連の言う「民衆の原像」は、吉本の言うような単なる「大衆の生活史総体」ではない)。
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