三島主演の企画
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大映プロデューサーの藤井浩明は、三島由紀夫の長編小説『鏡子の家』の冒頭部の章が雑誌『聲』に発表されて以来その映画化を企画し、完結した書き下ろしの『鏡子の家』が1959年(昭和34年)9月に刊行されると同時に、市川崑に監督を依頼した。市川崑は以前に『炎上』(1958年8月封切)で三島の『金閣寺』の映画化に成功していた実績があり、市川はすぐに快く承諾した。大映の永田雅一社長も、三島の長編を市川崑でやる企画を報告すると、「乗った!」と会議にもかけずに即決した。 ところがそんな折、三島と付き合いの長い講談社の編集者・榎本昌治が藤井に、「三島の映画をやらないか」と、三島の主演映画を作る話を持ちかけてきた。榎本と藤井は親しい間柄であった。三島はその同年、自作エッセイの翻案映画『不道徳教育講座』(1959年1月封切)でナビゲーター役としてほんの少し特別出演していたが、それ以前から自分が映画に出ることに興味を持っていた。 榎本昌治は三島の直接の編集担当者ではなかったが、女性誌の『若い女性』の書籍出版部に在籍していた経歴があり、その渉外能力の高さで「冠婚葬祭係」の異名を持つ名物編集者として知られる豪放磊落なイメージの人物であった。榎本は最初、この企画を日活に持ちこみ、三島と石原裕次郎の共演にしようとするが実現されなかった。そこで榎本は大映に持ちこみ、三島が大好きな永田社長の大歓迎を受けた。 三島原作映画化と三島主演映画という企画がバッティングしてしまったため、とりあえず『鏡子の家』の映画化の方は後回しにし(結局実現しなかった)、不調ぎみの大映を盛り返すために三島主演映画を製作することが決定となった。1959年(昭和34年)秋に永田社長は正式に三島に映画主演を依頼し合意に至った。この頃の三島は、渾身で発表した書き下ろし長編『鏡子の家』に対する文壇の不評に失望し意気消沈し始めていた時期で、気分を変えたいという心持ちを秘めていた。 永田社長が、相手役の女優は誰でも好きなのを自由に選べと、京マチ子、山本富士子、若尾文子などの名前を挙げると、三島はすぐに若尾文子を選んだ。三島は若尾のファンで、その「ポチャポチャとした」顔が好みであった。 最初、永田社長は「三島由紀夫」という役でどうだと提案した。しかし三島は「小説家」という固定観念を外したらどう見えるか聞き、永田社長は「二枚目の敵役で、崩れた役がよろしい。ヤクザっぽい役の方がいい」と言った。三島は、「限りなく無教養な男」の役を希望し、「インテリの役というのは絶対勘弁してくれ」と依頼した。 藤井は三島の了解を得て、監督を増村保造にすることにした。当時日本映画界の期待の星であった増村は三島主演作の監督をすぐに引き受けた。三島と増村は東京帝国大学法学部時代の同級生の間柄で顔見知りであった。三島は増村に、「自信のあるのは胸毛だから、よろしくお願いします」と挨拶し、脚本を担当することになった白坂依志夫には、濃厚なラヴ・シーンを注文した。
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