三島主演の企画とは? わかりやすく解説

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三島主演の企画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 01:50 UTC 版)

からっ風野郎」の記事における「三島主演の企画」の解説

大映プロデューサー藤井浩明は、三島由紀夫長編小説『鏡子の家』冒頭部の章が雑誌『聲』に発表され以来その映画化企画し完結した書き下ろし『鏡子の家』1959年昭和34年9月刊行される同時に市川崑監督依頼した市川崑以前に『炎上』(1958年8月封切)で三島の『金閣寺』の映画化成功していた実績があり、市川はすぐに快く承諾した大映永田雅一社長も、三島長編市川崑でやる企画報告すると、「乗った!」と会議にもかけずに即決した。 ところがそんな折、三島付き合い長い講談社編集者榎本昌治が藤井に、「三島映画やらないか」と、三島主演映画作る話を持ちかけてきた。榎本藤井親し間柄であった三島はその同年自作エッセイ翻案映画不道徳教育講座』(1959年1月封切)でナビゲーター役としてほんの少し特別出演していたが、それ以前から自分映画に出ることに興味持っていた。 榎本昌治は三島直接編集担当者ではなかったが、女性誌の『若い女性』の書籍出版部に在籍していた経歴があり、その渉外能力の高さで「冠婚葬祭係」の異名を持つ名物編集者として知られる豪放磊落イメージ人物であった榎本最初、この企画日活持ちこみ、三島石原裕次郎共演にしようとする実現されなかった。そこで榎本大映持ちこみ、三島大好きな永田社長大歓迎受けた三島原作映画化三島主演映画という企画バッティングしてしまったため、とりあえ『鏡子の家』映画化の方は後回しにし(結局実現しなかった)、不調ぎみの大映盛り返すために三島主演映画製作することが決定となった1959年昭和34年秋に永田社長正式に三島映画主演依頼し合意至ったこの頃三島は、渾身発表した書き下ろし長編『鏡子の家』対す文壇不評失望し意気消沈し始めていた時期で、気分変えたいという心持ち秘めていた。 永田社長が、相手役女優誰でも好きなのを自由に選べと、京マチ子山本富士子若尾文子などの名前を挙げると、三島はすぐに若尾文子選んだ三島は若尾のファンで、その「ポチャポチャとした」顔が好みであった最初永田社長は「三島由紀夫」という役でどうだと提案した。しかし三島は「小説家」という固定観念外したらどう見えるか聞き永田社長は「二枚目敵役で、崩れた役がよろしい。ヤクザっぽい役の方がいい」と言った三島は、「限りなく無教養な男」の役を希望し、「インテリ役というのは絶対勘弁してくれ」と依頼した藤井三島了解得て監督増村保造にすることにした。当時日本映画界の期待の星であった増村三島主演作監督をすぐに引き受けた三島増村東京帝国大学法学部時代同級生間柄顔見知りであった三島増村に、「自信のあるのは胸毛だから、よろしくお願いします」と挨拶し脚本担当することになった白坂依志夫には、濃厚なラヴ・シーン注文した

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