三代目B&B
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「B&B (お笑いコンビ)」の記事における「三代目B&B」の解説
洋七は漫才は諦めようかと悩んだが、花月劇場の幕引き、進行役をしていた島田洋八を、また三枝が「あの人はどないや。」と薦めるので洋八を口説き1975年9月、三代目B&Bを結成。「七転び八起き」または「七転八倒」から、それぞれ洋七・洋八に改名。この命名は師匠の島田洋之介。紳助は「洋七の相方が洋八になって戦力は落ちた」と述べている。 結成二年目の1977年には第6回上方お笑い大賞銀賞を受賞。翌1978年には第13回上方漫才大賞奨励賞を受賞するなど実力が認められた。こと劇場内で笑いをとることにかけてはB&Bは、一、二を争っていた。 しかし当時は関西でも演芸番組が激減していた時代、B&Bが売れっ子になるという訳ではなかった。1978年に吉本に入社した大崎洋は「僕が吉本に入った頃は、やすきよさんの稼ぎで社員が食べられていた規模でした。漫才ブームの前で、劇場には『悪場所』の雰囲気がぷんぷん。滅び行くものを芸人さんと走りながら売っていくんやな、と最初に思いましたね」などと述べている。新野新は、B&Bを当時から高く評価し、「久方ぶりの上方漫才の収穫といわれながら、仕事がないという彼ら。B&Bくらい面白くなった漫才なら、どんどんテレビへ出て、もうとっくに茶の間のおなじみになっていいはずだが、時期が悪いといおうか、B&Bがテレビに出演することは、めったにない。それにしても、売り出す、ということはむずかしいことだと改めて思う」などと著書で述べている。 1979年、「ヤングおー!おー!」(MBS制作)のチンチラチンコーナーにレギュラー抜擢されなかった事が原因で大阪の活動に限界を感じる(詳細は後述)。この事が最終的に決断した理由だが、頑なに東京行きを決行した理由を洋七は幾つか異なる説明をしている。一つは当時の吉本興業には、やすしきよし、Wヤング、中田カウス・ボタンといったそうそうたる売れっ子がズラリといて、どんなに賞を獲ったとしても、自分たちは野球でいえば二軍、いつかはおハチが回ってくるかもしれないが、ボクは待ちきれなかった。また当時の大阪の若手実力漫才コンビの中では、ほぼ唯一の"非関西圏"の出身でもあり、大阪にいるあいだは"ヨソもん意識"があって大阪に執着は無く、東京なら"ヨソもん"の集まりだからいいだろうと考えたこと。「僕ら広島と岡山の出身やから、大阪で働くのも東京へ行くのも、根本的には違いない」、「一部から認められているのだが、いっこうに売れない。生活だって楽ではない。そんな焦りから気分を変えるために東京に出た」。他に星セント・ルイスが大阪の東西対抗というテレビ番組にやってきて、西の代表として迎え撃ったが、笑いでは自分たちが勝っていた。セント・ルイスの人気をみて、東京に行った方が売れるんじゃないかと思ったこと。また、大阪では結構売れっ子となっていたのに、郷里の広島や、祖母のいる佐賀ではほとんど知られておらず、「いくら売れても大阪ローカルではダメ、東京発の全国ネットのTV番組に出演しなければ意味がない」と悟ったこと。他にも、この頃から付き合いのあったビートたけしから「東京に来いよ」と言われていた、Wヤングの平川幸男に「お前らなら売れる。東京に行け」と勧められたという話もある。友人でもあり、ライバルでもあったザ・ぼんち・里見まさとは、「洋七は以前から、このままではいかん。東京に出たい、出たいと言っていた」と話している。これらの理由から東京で活躍したいという野望が沸く。東京進出を洋八に話すと二つ返事でOKと言った。洋七は大阪の芸人が東京に進出したのは僕らが初めて」と延べている。上京前日、洋七のアルバイト先のスナックを訪ねた親しい大阪新聞記者に洋七は、「俺は腕はある。自信もある。けど、どこで漫才やったらええねん」と吐露した。これが当時の漫才の置かれた状況。洋七の言葉は、当時の若手漫才師みんなの代弁だった。上方漫才界のガスは、十分に充満していた。 当時の吉本は東京に事務所がなかった。1979年8月26日、NHK教育テレビ『若い広場』「B&Bラストin大阪(うめだ花月)」に出演。同年9月、東京行きを決行した。
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