三代目〜急成長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 13:43 UTC 版)
1942年(昭和17年)における山口登の死後、しばらくは跡目が決することなく組長不在の状態にあったものの、1946年(昭和21年)に田岡一雄を首領に据えた三代目体制が発足。この田岡率いる三代目体制下にあって、昭和30年代(1955〜1964)から昭和40年代(1965〜1974)にかけて日本全国各地へ進出、対立抗争を繰り返しながら急速に勢力を拡大していった。 田岡襲名時の山口組の総勢はわずか33人に過ぎないものであった。それが1965年(昭和40年)までに、傘下424団体、総勢9,450名を数える巨大組織に発展。その間に当事者となった対立抗争は日本の各地を舞台としたもので、「小松島抗争」、「明友会抗争」、「鳥取抗争」、「博多事件」、「広島代理戦争」、「松山抗争」などが主要なそれであった。 警察当局によるいわゆる「第一次頂上作戦」のさなかで直系組長らの脱退と直系組織の解散が相次ぐに至り、一時期弱体化するも、勢力の回復を経て、田岡の死去の前年にあたる1980年(昭和55年)までに、2府33県に559団体、1万1800人あまりの総勢を擁する組織に成長した。そうした三代目体制期を築いた田岡は山口組の中興の祖として記憶されるに至った。 1971年(昭和46年)9月5日、山本健一が若頭に就任。山本が責任者となって麻薬追放、国土浄化連盟を結成した。さらに同年9月25日、神戸市生田区(現在の中央区)の湊川神社で「麻薬撲滅決起集会」を開催した。
※この「三代目〜急成長」の解説は、「山口組」の解説の一部です。
「三代目〜急成長」を含む「山口組」の記事については、「山口組」の概要を参照ください。
- 三代目〜急成長のページへのリンク