ロートン砦の占拠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/10/14 01:14 UTC 版)
「バーニー・ホワイトベアー」の記事における「ロートン砦の占拠」の解説
1970年3月7日、バーニーは「ロートン砦占拠」計画の発表と前祝いのため、シアトル南部の「フィリピン人共同体センター」のホールでパウワウを開催し、「全部族インディアン」の仲間たちに向けて次のように述べた。 「それはかなり手荒いものになるでしょう。私はあなた方全員に、困難と痛みに対して覚悟を決めてもらいたいのです。あなた方のうちで、慰めのために酒や薬物が必要だと言う人は、どうかそれを忘れてください。私はアルカトラズでの失敗を繰り返したくない。私はこれを勝ち取りたいのです。」 同年3月8日早朝、バーニー、ボブ・サタイアクム、ランディ・ルイス、キノールト族のジョー・デラクルーズら100名の「全部族インディアン」は自動車キャラバンを組んで、「フィリピン人共同体センター」からシアトル北部の「ロートン砦」へと向かった。それぞれの車のアンテナには、「インディアンの誇り」を示す赤い布が結びつけられていた。彼らの車列は途中参加車両によって2列縦隊となり、目的地に近付いた頃には1㎞近い長さになっていた。彼らは基地の南北両端で、有刺鉄線のフェンスに毛布を被せ、これを乗り越えて侵入した。このあと、女子供を含むインディアン占拠団はティーピーと太鼓の円陣を準備して、伝統的な歌を唄い始めた。 インディアンたちはまだ兵隊が基地に残っていると思っていなかったが、そこには憲兵隊の警備員がいた。彼らは驚いて通報し、「ルイス基地」から暴徒鎮圧用の武装をした第392憲兵隊と、シアトル市警官隊がやって来た。彼らはインディアンたちに襲いかかり、暴行を加えた。インディアンたちも反撃し、ジープがひっくり返され、憲兵隊はガス弾を使って彼らを追い込んだ。兵舎に逃げ込んでいた子供たちは、ガス弾を拾って投げ返し、三つの兵舎を炎上させた。 多数のインディアンが逮捕連行され、拘留された。約500人のインディアンが基地の入口の外に集まって、一大抗議デモを始めた。彼らはこの占拠抗議を自ら「侵略」(invasion)と呼び、 基地前での抗議は3週間続いた。「AIWSL」は直接参加しなかったが、キャサリン・トラウらは抗議団に食料や医療の援助を行った。彼らの他にも、様々な民族団体が支援を行った。女優のジェーン・フォンダもこの抗議団に加わった一人だった。バーニーとボブ・サタイアクムは占拠グループの代表としてスポークスマンを務め、タイプライターを持ちこんで、全米のみならず国際報道機関に対して声明文を配り、占拠地で会見を行った。バーニーは殺到したマスコミに向かってこう宣言している。 「我々、アメリカインディアンは、『発見の権利』(Right of Discovery)によって、すべてのアメリカインディアンの名において、『ロートン砦』として知られているこの土地を取り戻すものである。」 3月12日、抗議団は再び占拠を目論み、警備隊の網の目をかいくぐり、長老や子供たちを含む約100人の集団が南端の崖をよじ登って砦に潜入した。彼らはティーピーを建て、火を起こして太鼓を叩き始めた。再び憲兵隊と警官隊が暴徒鎮圧装備で押し寄せた。ランディ・ルイスは「ウーンデッド・ニーの虐殺の再来を覚悟した」と語っている。年寄りや子供もいるので、彼らは抵抗せず、殴り倒されて連行され、拘留された。占拠グループにはジム・ソープの娘のグレース・ソープもいた。 バーニーは一連の占拠抗議の間、米軍との交渉に奔走したが、この実力行使自体は市内のインディアン共同体からの反対意見に晒されることとなった。ことに「アメリカインディアン女性奉仕連盟」(AIWSL)の創設者のパール・ウォーレンは、「この占拠が、シアトルのインディアン互助団体に対するささやかな公的資金の援助を危うくした」と彼らを非難。バーニーやランディが謝罪する一幕もあった。バーニーらは「フィリピン人共同体センター」で集会を開き、4月1日を以て占拠を打ち切ると決定した。シアトル在住のフランク・ホワイトバッファローマンというスー族の老呪い師は「その日、メッセージが空からもたらされるだろう」と報道陣に話した。4月1日に記者会見の席で一同が空を見ると、フランクが雇った宣伝飛行機が、「ロートン砦を譲りなさい」と大空に字を書いていた。
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