ラジオ開局後とは? わかりやすく解説

ラジオ開局後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 03:21 UTC 版)

宮崎放送」の記事における「ラジオ開局後」の解説

ラジオ宮崎開局した1954年デフレ下に加え風水害頻発した一年であった6月から8月にかけての長雨加え8月9月には台風が4回も襲来し宮崎県における農林業被害額は約150億円に上った参考1952年1953年度農林業所得161億円である)。以上の要因により、第1期1954年度)は690万円損失金を計上した。なお、9月7日襲来した台風13号ラジオ宮崎初の台風情報放送行い同月13日台風12号では停電により停波したことから(当時自家発電装置未整備)、宮崎県から払い下げ受けた広報車通称マイクロカー、またはエノケン車と呼称)を用いて台風情報伝えた第2期1955年度)では東京支社大阪支社営業力強化などを実施し神武景気到来相まってわずかながらの黒字転換している。 ラジオ宮崎開局当初周波数であった1490kcはラジオ山梨現在のYBS山梨放送)と韓国群山市米軍ビーコン局も使用しており、宮崎市周辺以外では夜間の混信により聴取不可能の状態に陥っていた。このため1956年10月1日周波数は1480kc(当時日本唯一)に変更され1956年11月延岡中継局1958年5月には都城中継局設置された。1956年周波数変更延岡開局によりサービスエリア拡大し混信なくなったことから、第5期1957年4月-9月)には繰越損失金なくなり純利益金も計上、初の株主配当実施された。 ニュースについて全国ニュース共同通信社宮崎ローカルニュース日向日日新聞ラジオ部からの提供であったが、全国ニュースについては1956年5月1日から毎日新聞社西部本社一部大阪本社)に切り替えられた。日向日日新聞ラジオ部の初代部長は、後に宮崎日日新聞社エフエム宮崎社長務めた黒木清次であった日向日日新聞供によるローカルニュースその後宮崎日日新聞ニュース」となり、テレビ宮崎 (UMK) 開局直前1970年3月末まで続いた日頃ニュース番組こそ新聞社依存していたが、これとは別途録音ニュース番組自社制作された。当初毎日夕方放送設けていたが、専任担当者1人のみで無理があったことから1959年11月から日曜夕方15分番組となり、複数回の番組変更経て1962年4月まで続いた1960年頃の特徴として、ラジオ宮崎局・延岡局・都城局の各局から別番組1日30程度地元スポンサー付けて放送されたことが挙げられる。これは当時延岡局・都城局がコールサインを持つ独立した有人であったことから実現したもの。1960年4月1日1835分からの15分においては宮崎局では『歌う若草美人』(若草商店街提供)、延岡局では『銀天街アワー』(延岡商店商社提供)、都城局では『都城アワー』(都城商店商社提供)が放送されていた。この編成1960年2月から1963年6月まで実施された。なお、都城局は1962年5月延岡局は1967年4月無人運用切り替えられた。

※この「ラジオ開局後」の解説は、「宮崎放送」の解説の一部です。
「ラジオ開局後」を含む「宮崎放送」の記事については、「宮崎放送」の概要を参照ください。

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