ラジオ開局後
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ラジオ宮崎が開局した1954年はデフレ下に加え風水害が頻発した一年であった。6月から8月にかけての長雨に加え、8月・9月には台風が4回も襲来し、宮崎県における農林業被害額は約150億円に上った(参考:1952年・1953年度の農林業所得が161億円である)。以上の要因により、第1期(1954年度)は690余万円の損失金を計上した。なお、9月7日に襲来した台風13号でラジオ宮崎初の台風情報放送を行い、同月13日の台風12号では停電により停波したことから(当時自家発電装置は未整備)、宮崎県から払い下げを受けた広報車(通称マイクロカー、またはエノケン車と呼称)を用いて台風情報を伝えた。第2期(1955年度)では東京支社・大阪支社の営業力強化などを実施し、神武景気の到来も相まってわずかながらの黒字に転換している。 ラジオ宮崎開局当初の周波数であった1490kcはラジオ山梨(現在のYBS山梨放送)と韓国群山市の米軍ビーコン局も使用しており、宮崎市周辺以外では夜間の混信により聴取不可能の状態に陥っていた。このため1956年10月1日に周波数は1480kc(当時日本唯一)に変更され、1956年11月に延岡中継局、1958年5月には都城中継局が設置された。1956年の周波数変更と延岡局開局によりサービスエリアが拡大し混信がなくなったことから、第5期(1957年4月-9月)には繰越損失金がなくなり純利益金も計上、初の株主配当が実施された。 ニュースについては全国ニュースは共同通信社、宮崎のローカルニュースは日向日日新聞ラジオ部からの提供であったが、全国ニュースについては1956年5月1日から毎日新聞社(西部本社、一部は大阪本社)に切り替えられた。日向日日新聞ラジオ部の初代部長は、後に宮崎日日新聞社やエフエム宮崎の社長を務めた黒木清次であった。日向日日新聞提供によるローカルニュースはその後「宮崎日日新聞ニュース」となり、テレビ宮崎 (UMK) 開局直前の1970年3月末まで続いた。日頃のニュース番組こそ新聞社に依存していたが、これとは別途に録音ニュース番組が自社制作された。当初は毎日夕方に放送枠を設けていたが、専任担当者が1人のみで無理があったことから1959年11月から日曜夕方の15分番組となり、複数回の番組名変更を経て1962年4月まで続いた。 1960年頃の特徴として、ラジオの宮崎局・延岡局・都城局の各局から別番組が1日30分程度、地元スポンサーを付けて放送されたことが挙げられる。これは当時の延岡局・都城局がコールサインを持つ独立した有人局であったことから実現したもの。1960年4月1日の18時35分からの15分枠においては宮崎局では『歌う若草美人』(若草商店街提供)、延岡局では『銀天街アワー』(延岡商店商社提供)、都城局では『都城アワー』(都城商店商社提供)が放送されていた。この編成は1960年2月から1963年6月まで実施された。なお、都城局は1962年5月、延岡局は1967年4月に無人局運用に切り替えられた。
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