ラジオ開局まで
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1953年5月30日、当時の郵政省が発表した「標準放送用周波数割当計画表」により、宮崎地区に1490kc、1kWが割り当てられたことから、宮崎県内でも民放局の開局が可能となった。ところが当時は、朝鮮戦争後の不景気(スターリン暴落)により、宮崎の財界では当初開局に向けた動きは全く見られなかった。そこに目をつけたのは鹿児島県のラジオ南日本(現在のMBC南日本放送)であった。ラジオ南日本は宮崎への中継局設置を計画しており、宮崎市内の各方面にパンフレットや中継局設置に関する趣意書を配布するなどの活動を行っていた。 この動きに歯止めをかけた人物は、日向日日新聞(現在の宮崎日日新聞)社長の山口徳馬であった。「鹿児島の電波が宮崎の空を飛ぶと、今に鹿児島資本に支配される。」などと、ラジオ南日本の誘いに乗りかけていた岩切章太郎(宮崎交通社長、後に第2代MRT社長も兼務)や行政側(宮崎県など)をも巻き込み、1954年3月24日にラジオ宮崎(RMK:Radio Miyazaki K.K.)の設立にこぎつけた。ラジオ演奏所・送信所は当初、宮崎市日ノ出町128番地(1984年時点では宮崎県自動車学校、2021年現在は梅田学園DS 日ノ出校の地)に設置する予定であったが、航空大学校開校により航空機および無線施設の運用に支障がでるおそれが生じたことから断念し、二度の変更を経て宮崎市下北方町に決定された。1954年7月1日に宮崎市下北方町(宮崎市立大宮小学校に隣接)からラジオ放送を開始。宮崎放送ではこの日を開局日としている。
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