ミゲル・イダルゴの独立運動
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「メキシコ独立革命」の記事における「ミゲル・イダルゴの独立運動」の解説
フェルナンド7世の退位とフランス軍のスペイン侵攻のニュースがヌエバ・エスパーニャに届いたのは、1808年7月16日であった。ほどなくしてフランス政府と対仏抵抗政府の両方の使者がヌエバ・エスパーニャに訪れ、各自の政府を承認するよう要請した。この事態を受けて一部のペニンスラール(支配階級であるイベリア半島生まれのスペイン人)は副王を解任し、退役軍人のペドロ・デ・ガリバイを副王にし、1810年9月には新たにハビエル・デ・ベネガスが副王に着任した。 ちょうど同じ頃、メキシコ中央高原の現在のケレタロ市周辺では、反乱を企てるクリオーリョ(被支配階級であるメキシコ生まれの土着の白人)の集団がいた。その中のひとつに、グアナフアト州にある小さな町、ドロレス(Dolores、現在のドローレス・イダルゴ Dolores Hidalgo)で司祭を務めていたミゲル・イダルゴ・イ・コスティーリャ(Miguel Hidalgo y Costilla)が加入した。クリオーリョであった彼はドロレスの司祭として先住民(インディオ)や混血(メスティーソ)の農民や労働者達の生活改善に力を入れる一方、インディオの言葉を覚え、農民の厳しい暮らしに心を痛めていた。またグアナフアトの銀山が唯一の産業であるこの地方の経済を変えるため、産業の多様化が必要だと考えていた。 彼はドロレスで司祭を務め始めた頃から、仲間のクリオーリョたちとともに、先住民とメスティーソの農民が富裕なペニンスラールの地主や貴族に対して蜂起するという計画を企てていた。またイダルゴは自宅を自由な議論の場とし、先住民・メスティーソ・クリオーリョ・ペニンスラールら多様な人々を迎え入れては討論を行っていた。その議題は時事問題などであったが、イダルゴは社会問題や経済問題について自分の意見を披露した。こうした議論の中から、スペインの支配する植民地政府に対して直接蜂起し、ヌエバ・エスパーニャの社会や経済をスペイン人の強権支配から解放するというアイデアが生まれることとなる。 この頃、スペイン本国はスペイン独立戦争が勃発する事態となっていた。この混乱に乗じ、植民地の解放の機運が中南米各地で高まった。またグアナフアト州からケレタロ州にかけて広がるバヒオ(Bajío)の平原の農村に1808~09年にかけて干ばつがあって、1810~11年に飢饉が広がり、大農園の売り惜しみにより主食のトウモロコシの値段が高騰し農民は苦しんでいた。イダルゴ自身は社会的抗議を意識し、直接農民、貧民に呼びかけて蜂起の準備を進め、1810年10月1日を決起の予定日とし、武器弾薬の備蓄を始めていた。ところが蜂起直前の9月13日、仲間の中から裏切り者が出て、この計画が地元政府に漏れてしまった。コレヒドール(地方長官)のミゲル・ドミンゲスは反乱者たちのアジトの捜索や一味の逮捕を命令した。しかし彼の妻であり、実はイダルゴたちの反乱計画の仲間であったホセファ・オルティス・デ・ドミンゲス(Josefa Ortiz de Domínguez)は夫に閉じ込められた部屋から脱出し、イダルゴら仲間たちに警告を送った。 彼女のおかげで逮捕から逃れることができたイダルゴたちは決起の計画を早めることとした。1810年9月16日の早朝、イダルゴはドロレスの教会の鐘を鳴らし会衆を集め、スペイン植民地政府やペニンスラールに対する抵抗を呼びかけた。彼は「我らがグアダルペの聖母万歳!悪辣な政府と植民者たちに死を!」と言ってすべてのスペイン人の追放を訴え、演説を「Mexicanos, ¡viva México! (メキシコ人よ、メキシコ万歳!)」という叫びで締めくくった。この有名な演説は『ドロレスの叫び』(Grito de Dolores)と呼ばれる。この時イダルゴ神父は集まった教区内の先住民に対して副王の打倒を呼びかけ、「独立」を口にはしていない。 この訴えを聞いた原住民や農民はすぐ行動を起こし、当時最大の鉱山町グアナフアトに向かって行進をはじめた。途中で多くの農民やメスティソが参加し、その数は2万3000人に達した。その行進の途中にイダルゴは農民に対する人頭税の廃止、奴隷制の廃止、不当に奪われた農民の土地の返還などの要求を掲げた。
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