マラソンで世界一周
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「ロージー・スウェイル・ポープ」の記事における「マラソンで世界一周」の解説
2番目の夫であるクライヴ(73歳没)を2002年に亡くした直後は、マラソンの目的を前立腺がんの治療と、キーテジ(ロシア)にあり子供を教育しケアする孤児院のために募金を集めることにした。 サポート隊をともなわないこと、最小限の物資と資金援助で取り組むことを条件に決め、できるだけ多くの陸地を縫って北半球を走ろうとする。出発日は自身の57歳の誕生日当日、2003年10月2日と定め、出発点は故郷ウェールズのテンビーを選んだ。最初の足跡は自宅正面の階段の敷石に刻んである。自宅を貸家にして資金を手当てすると、特注の小さな食料カートに最低限のキャンプ用品を積み、旅が始まった。 ロシアのモスクワ到着は2004年4月5日、およそ1年半足らずのちの2005年9月15日に同国の極東部マガダンに入った。冬のアラスカで極限状態に直面して中断したのち再出発を2006年4月17日に迎えると、半年後の同年10月にはカナダのエドモントンにいた。出発からまる4年後の2007年10月2日、アメリカ・ニューヨーク市に到着。 スウェイル・ポープはベッドと物資保管庫兼避難所として特注のカートを引きながら走った。息子のジェームズによると支援者が現在地を緊密に追尾し、ウェブサイトを定期的に更新してメッセージを発信していたという。支援者のひとりジェフ・ホールはスウェイル・ポープが食料と物資を補給できるように、世界各地に補給地点を確保した。 フェロー諸島では、スウェイル・ポープは夜景を楽しむ深夜の徒歩ツアーに参加した。また旅先で招かれて文化に関する講演をしている。銃を持った裸の男との遭遇、シベリアオオカミが1週間にわたり並走した様子や、予定外のシカゴマラソンを走る方策として旅程を休んだ件について述べている。 最小限の食料で旅を続けるうち、ロシアのバイカル湖近くで体調を崩してしまう。おそらくはマダニに噛まれ感染症にかかったと考えられるが、意識が混濁したままバス専用道路に迷いこんで失神した。通りかかったバスに発見され、病院に運びこまれている。アラスカでは零下の極寒(−60 °F (−51.1 °C))に対処しようとしたが、夜中に寝袋のなかで凍死寸前に陥る。吹雪で足止めされたユーコン川近辺では、足に凍傷を負って歩けなくなり、とうとう最終手段としてウェールズの友人に助けを求めている。連絡を受け、アラスカ州兵に電話をかけた友人のおかげで保護され、迅速に治療を受けたおかげで足を失わず、その後、再び走り続けることができた[要出典]。 セントジョンズ(ニューファンドランド)から飛行機でカナダを離れた2008年1月24日からアイスランドへ向かう同年2月9日までの短期間を利用し、グリーンランドを訪問して戻ると、アイスランド東部から旅程を再開するが氷上で転倒したときに骨盤を骨折、肋骨を数本傷めた。それでも最寄りの人家に助けを求めようと歩きつづけ、ころんだ地点から3 km強の地点で発見され、医師の元に運ばれる。160 km先まで人家はなかったという。 アイスランドからフェリーでスコットランド最北端のスクラブスター(英語版)入りするのは2008年6月18日である。出発点の故郷テンビーまで走り始めると、両足の疲労骨折により最後の数キロは松葉杖で進んだが、2008年8月25日現地時間14時18分、とうとう自宅に帰り着き世界一周を終えた。地域住民ばかりか、当日は国の休日バンクホリデーにあたり、大群衆が帰国を見守り、家に帰ってきた姿をひとめ見ようと取り巻いた。スウェイル・ポープの総移動距離は3万4000kmと記録された。
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