マラソンに関するエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/01 07:25 UTC 版)
「佐々木生道」の記事における「マラソンに関するエピソード」の解説
ボストンマラソンに参加できた経緯当時、海外で開催されるマラソンは、日本陸上競技連盟によって選考された選手のみが参加できるシステムになっており、一般の市民ランナーは参加する糸口がなかった。ましてや、佐々木生道はマラソンを55歳を過ぎてから始め、陸上選手としての実績もなく、とても参加できる状況にはなかった。ただ、1967年から開催された青梅マラソンや、陸上選手しか参加できない別府大分毎日マラソンなど、国内の大会においては、様々な大会で完走の実績は持っていた。しかし、佐々木生道は、マラソンの師であった山田敬蔵が優勝を飾ったボストンマラソンへの参加を実現するために、ボストンマラソンの運営事務局に直接ラブレターを送り、切符を勝ち取った、という。手紙の内容はわからないが、信念を貫く強い気持ちが、参加を実現させた(山田敬蔵・談話)。 マラソンを始めたきっかけ50歳頃(1963年頃)まで、体重96キロ、酒は一日に一升、ビール10本、煙草を100本吸い、52歳(1965年)で糖尿病を患った。禁酒・禁煙・減食・歩くことを決意し、1日5~6時間歩いた。わずか半年で、体重は48キロまで落ちた。近所のうなぎ屋のおかみが「ねぇ、あんたに似た太った人、この頃見かけないけどどうしたの?」と聞かれ、自分だと答えると、あまりの姿の変化に自分だと信じてもらえなかったという。その後、山田敬蔵氏らが主催するランニング講座を受講し、マラソンに取りつかれた。 トレーニング毎日歩き続けた後、ランニングに移行。55歳頃から、朝・夕の2回、10キロずつ走り、生涯欠かすことはなかった。 鉄の意志を持つ超人山田敬蔵に「この人程強い意志を持った人は、珍しい」と言わせた人物だった。一度決めたことは、終えるまで変えない。ボストンマラソン10年、ホノルルマラソン10年連続出場を達成し、その後も多くの高齢記録を残した。
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