ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会
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「ものみの塔聖書冊子協会」の記事における「ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会」の解説
1881年2月16日に設立され、当初は「シオンのものみの塔冊子協会」と呼ばれた。この同じ年には、コルポーター(エホバの証人の伝道活動の前身、「聖書文書頒布者」とも)の募集が『シオンのものみの塔』誌上に掲載されるが、協会設立の目的とは、彼らが頒布する聖書文書の印刷と、頒布活動の調整であったとされる。設立当初、会長職にあったのは ウィリアム・ヘンリー・コンリー(英語版)であったが、同協会は1884年12月25日にペンシルベニア州の非営利法人法に従い、法人として認可されるに至る。法人化にあたって、チャールズ・テイズ・ラッセルが会長に就任する。。1896年には「ものみの塔聖書冊子協会」へと名称変更し、1955年にはさらに、現在の名称である「ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会」へと変更される。。 1898年には会長であるラッセルが個人所有していた「塔出版会社」が協会に寄贈され、『ものみの塔』や『聖書研究』等、ラッセルが個人的に執筆した出版物も扱うようになる。ただし、この頃までの印刷と製本は業者への発注で、実際に行っていた作業は植字と組版の作成であり、印刷コストを少しでも下げるための取り組みであったとされる。 1916年10月31日にラッセルが死亡すると、2ヶ月ほどの会長席空位を挟み、翌年初頭の年次総会においてジョセフ・フランクリン・ラザフォードが次の会長に選出される。しかし、彼の着任から程なくして4人の理事達が彼に批判的な行動を示し始めると、彼らは解任され、同調した者達も共に協会を去る。解任された理事達は各地で公演を行い、組織から離れる者達が続出する(1918年には沈静化)。それとほぼ時を同じくして、ラッセルの遺稿である『聖書研究』シリーズの第七巻にあたる『終了した秘義』が出版・頒布されるようになると、その内容に激怒した者達は政府を動かし、1918年に同書はカナダで発禁処分を受ける。同書に対する反対はアメリカ合衆国でも起こり、会長を含む8人の理事達がアトランタの連邦刑務所に収監される。時節は第一次世界大戦の只中であり、活動そのものが制限されている状況でもあったため、残された者達の手でブルックリンにあった施設(本部機能は1906年にニューヨーク州へと移転されていた)は売却され、活動拠点はラッセルらによる旗揚げの地である、ペンシルベニア州ピッツバーグへと戻された。 戦争終結後、理事達が釈放されると、本部機能を再びブルックリンへと戻す。また、当時は不可能であろうと考えられてきた輪転機の入手に成功。1920年の初頭には、製本に至るまでの全工程を、自力で行えるだけの体制が整う。 主な財源は信者や、文書を受け取った人の金銭支払いによる。伝道者数は800万人ほどである。 組織の歴史上最も重要な出来事であるとされるのは、協会の定款の改正案が提出された1944年の年次総会であるとされ、定款内に「エホバ」の文字を含めた他、協会の会員資格、すなわち役員の選出に関わる選挙に投票する権利を得る資格について定めた、協会に対する「総額10ドル」という寄付額に関する条項が撤廃された。それら修正案は翌1945年に州裁判所の認可を得、新たな定款が正式に発効された。これにより、エホバの証人の反対者達によって組織が乗っ取られる事態を、事前に回避できるようになったとされる。
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