ペンシルバニア鉄道との競争と一度目の破綻
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「ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道」の記事における「ペンシルバニア鉄道との競争と一度目の破綻」の解説
前述のとおり、B&Oはボルチモア〜ワシントンD.C.間の新線を建設し、その路線の営業は好調に推移していたが、1880年代になって、ボルチモア周辺においてペンシルバニア鉄道(PRR)とB&Oとの間で、熾烈な争いが始まった。 PRRは、B&Oが持つボルチモア周辺のルートを奪取しようと画策。まずはボルチモアから北へ向かうルート、すなわちフィラデルフィアを経てニューヨークに至るルートを断ち切るために、B&Oが利用していたフィラデルフィア・ウィルミントン・アンド・ボルチモア鉄道(PW&B)を1884年に高額で買収した。 また、ボルチモア〜ワシントンD.C.間についても、PRRはボルチモア・アンド・ポトミック鉄道を通じて建設してしまった。かつて、メリーランド州はB&Oのボルチモア〜ワシントンD.C.間に競合する路線建設には許可を与えないという暗黙の約束を保持していたが、PRRは巧みなロビー活動でボルチモアからB&Oの路線の東側に平行して南下し、ボウイーを経てポープス・クリークに至る路線の建設許可を得た。その許可条項をPRRの法務担当者がよく見ると、そこには20マイルまでの支線の建設許可を伴っており、しかも、どこからどこに向かう支線か、は明示されていなかった。この条項を利用して、PRRは途中のボウイーからワシントンD.C.に向かう路線も支線として建設してしまった。つまり、B&Oの路線の東側に平行する形で新線を作り、両都市を結んだのである。建前上は支線であるボルチモア〜ワシントンD.C.間は1872年7月2日に営業を開始し、本来はメインラインであるが実質的に支線であるボウイー〜ポープス・クリーク間は翌年1月1日に開業した。 これらのPRRの策略に対抗して、B&OはPW&Bに平行するフィラデルフィア支線とボルチモア・アンド・フィラデルフィア鉄道の建設を開始し、1886年に完成させた。ボルチモア・ベルトラインが1895年に開業し、パタプスコ川をフェリーに頼らずにフィラデルフィア支線とメインラインを結んだ。しかし、フィラデルフィアの北部ダウンタウンをパスしてカムデン駅に向かうハワード・ストリート・トンネルの建設に莫大な資金を投入したため、それがきっかけとなってB&Oは翌年、倒産に至った。
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