ペンシルバニア鉄道との合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 01:22 UTC 版)
「ニューヨーク・セントラル鉄道」の記事における「ペンシルバニア鉄道との合併」の解説
北東部の多くの鉄道会社が直面している問題は、衰退しながらもまだ残っている輸送需要に対して輸送能力が余剰となっているという事実であった。ニューヨーク・セントラル鉄道には、競争相手として2大ライバル会社、ペンシルバニア鉄道とボルチモア・アンド・オハイオ鉄道があり、これに加えてより小さなデラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道、エリー鉄道、レディング鉄道、セントラル・レールロード・オブ・ニュージャージー、リーハイ・バレー鉄道などがあった。こうした鉄道会社を合併することが、運営を合理化し競争を回避する方法として考えられた。デラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道とエリー鉄道は、1956年から合同での運営を始めてある程度の成功を収めており、最終的に1960年のエリー・ラッカワナ鉄道の設立へとつながった。ほかには、バージニアン鉄道、ウォーバッシュ鉄道、ニッケル・プレート鉄道やその他いくつかの会社の合併でノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道が成立し、またボルチモア・アンド・オハイオ鉄道、ウェスタン・メリーランド鉄道、チェサピーク・アンド・オハイオ鉄道やその他のいくつかの会社を組み合わせてチェシー・システムが成立した。大幅な合理化と旅客輸送の削減がこうした合併の多くの成功につながった。 この傾向に従い、ニューヨーク・セントラル鉄道は少なくとも1950年代半ばには潜在的に合併相手となりうる会社の検討を始め、当初はボルチモア・アンド・オハイオ鉄道や、ニューヨーク・セントラル鉄道の傘下にあったニッケル・プレート鉄道との合併を追求していた。しかし前述したいくつもの合併とは異なり、州際通商委員会が運行維持を義務付けていたかなり大規模な地域・通勤旅客輸送をいまだに運営しているという点で、ニューヨーク・セントラル鉄道との合併はかなり厄介なものであった。 すぐに、ニューヨーク・セントラル鉄道と合併して成功する可能性があるだけの十分な資本を持つ会社は、ニューヨーク・セントラル鉄道の最大のライバルでそれ自体が大きな旅客輸送を行っていた、ペンシルバニア鉄道だけであることが明らかになった。この2社の合併交渉は1955年には行われていたが、多くの要因によりこれは遅れていた。州際通商委員会からの干渉、労働組合からの反対、競合他社との利害関係、両社自身が合併計画を作成できなかったことなどがあり、進展は10年以上遅れていた。合併協議の議論において2つあった大きな対立点としては、まず合併後にどちらが過半数の支配権を握るかということに集中した。1950年代から1960年代にかけてのパールマンの合理化推進により、ペンシルバニア鉄道に比べてニューヨーク・セントラル鉄道の経営状態はより良い状態にあった。にもかかわらず、ペンシルバニア鉄道の社長スチュアート・サウンダーズ (Stuart Saunders) に強く求められた州際通商委員会は、ペンシルバニア鉄道がニューヨーク・セントラル鉄道を吸収することを望んでいた。もう1点として州際通商委員会は、破綻したニューヨーク・ニューヘイブン・アンド・ハートフォード鉄道をこの合併に加えようと望み、これは結局のちに1969年に実現することになったが、両社ともこれを拒絶していたということがあった。結局この2点が最終的に合併後のペン・セントラル鉄道の崩壊へとつながった。 1967年12月、ニューヨーク・セントラル鉄道はその最後のダイヤを公表した。最後のダイヤは、ペンシルバニア鉄道との合併を前提として大幅に旅客輸送を削減したものとなっていた。有名な20世紀特急を含め、多くの長距離豪華列車が1967年12月3日に廃止となった。通勤列車を含め、ペンシルバニア鉄道との合併後にも運行を継続する列車のみが残された。
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