ブレジネフ時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 06:16 UTC 版)
「エストニアの言語」の記事における「ブレジネフ時代以降」の解説
しかし、1977年にはブレジネフ憲法によってさらなるロシア語教育の強化が推進され、翌1978年12月にはエストニア共産党中央委員会事務局秘密指令「プロトコル105第1項」により、ロシア語を社会生活唯一の手段とすること、そしてロシア語を愛するように生徒を教育させることが定められた。 1979年にはエストニア閣僚会議決定により、ロシア語教師の給料増額とロシア語クラスの定員削減が定められた。幼稚園などの就学前教育施設でも半日のロシア語教育が導入され、1982年には、ソ連ではリトアニアと並んで最も遅かったものの、小学校1年からの集中的なロシア語教育が開始された。1981-1982年のエストニア語学校におけるエストニア語授業時間は66時間であった一方、ロシア語授業時間は41時間であった(一方、ロシア語学校ではエストニア語16時間に対してロシア語72時間)。 そしてついに1983年4月、エストニア教育省作成の「エストニア語学校におけるロシア語優先教育に関する5か年計画」により、中等教育の修了要件にロシア語習得が義務化された。ロシア語は「第二母語」とされ、エストニア語学校においても母語学習の60パーセントがロシア語に割かれる一方、第一外国語の授業は1945年の週27時間から週16時間へと減少した。1980年代末の時点でロシア語学校数は全体の3分の1に達し、それらは主に軍の駐屯地や大工業地域(タリン・シッラマエ・コフトラ=ヤルヴェ・ナルヴァ・タパ(エストニア語版)・パルティスキなど)に置かれた。そのカリキュラムはロシア共和国のものに準じたものであり、通常5年ごとに転勤のある軍人とその子弟の都合に合わせたものであった。 エストニア語に対する圧力は公的なもののみに留まらず、役所でエストニア語の用紙を要求すれば民族主義者・ファシストと罵られ、全国の図書館からはエストニア語の書籍約1000万冊が秘密裏に処分され、印刷間際の口承文学の原稿が突如紛失し、エストニア人の歴史的記念碑や博物館・教会にも原因不明の放火・破壊が頻発する有様であった。その一方で、エストニア共産党中央委員会総会は、1985年から一貫してその討論の過半数をエストニア語で行っており、また公式文書の保管規則も、リトアニア共産党と並んで二言語での文書印刷を定めていた。 とはいえ、エストニア語教育とロシア語教育の非対称性は、エストニア人がロシア語に習熟する一方、ロシア人はエストニア語を理解も学習もしないという状況を呼んだ。1989年国勢調査では、非エストニア人のうちエストニア語バイリンガルは19パーセントである一方、エストニア人の59パーセントがロシア語バイリンガルであり、国民の58.9パーセントがロシア語を話すという状態であった。
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