ブレジネフとフルシチョフ
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「レオニード・ブレジネフ」の記事における「ブレジネフとフルシチョフ」の解説
1953年3月にスターリンが死去し、党幹部会が廃止され、より小さな政治局が再構成された。ブレジネフは政治局員にこそならなかったが、その代わりに中将の階級と共にソ連軍政治総局長第一代理に任命された。これは恐らく彼の後援者フルシチョフによる人事だった。1954年にカザフスタン共産党中央委員会第二書記となり、1955年5月にカザフスタン共産党中央委員会第一書記として、カザフスタンの開拓事業を指導した。 1956年2月にブレジネフはモスクワへ呼び戻され、共産党中央委員会政治局員候補兼書記として防衛産業・宇宙計画・重工業及び首都建設指揮の任務を与えられた。彼はフルシチョフの側近となり、1957年6月にヴャチェスラフ・モロトフ率いるスターリンの古老グループ、ゲオルギー・マレンコフ、ラーザリ・カガノーヴィチらとフルシチョフとの党の指導権争いに於いてフルシチョフを支持した。古老グループを排除した後、ブレジネフは正式に政治局員となった。 1959年にブレジネフはソビエト連邦最高会議幹部会副議長となり、1960年5月に議長に就任し、名目上の国家元首になった。実権は党第一書記のフルシチョフが握っていたが、議長のポストは外国への旅行を可能にした。彼は高価な西側の衣服や自動車に対する興味を深め、それは後に彼に対する悪評となった。 1962年までフルシチョフの党指導者としての地位は安泰だった。しかし彼が年老いると共に、その指導力の低下が他の指導陣の信頼を弱め、地位も不安定なものとなった。さらにソ連の経済問題の悪化がフルシチョフに対する圧力を増加させた。表面上ブレジネフはフルシチョフに忠実であったが、ニコライ・イグナトフやアレクサンドル・シェレーピンの働きかけで1963年にはフルシチョフの追放計画に加担することとなった。この年にはまたフルシチョフの後継者とされていたが、酒により健康を害したフロル・コズロフの後任(一時短期間ミハイル・スースロフが担当)として第二書記も兼ねたが、翌1964年7月に最高会議幹部会議長をフルシチョフと親しかったアナスタス・ミコヤンに譲らされ、第二書記に専念する事になる。その3か月後の10月13日及び14日に開かれた臨時の中央委員会総会でフルシチョフは年金生活に入るために「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長(首相)の地位を辞任した(事実上の解任)。ブレジネフは党第一書記となり、アレクセイ・コスイギンは首相になった。ミコヤンは最高会議幹部会議長にしばらく留まったが、1965年12月に事実上失脚し(1966年4月に政治局員も解任される。)、後任にニコライ・ポドゴルヌイが就任する。
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