ブレジネフとフルシチョフとは? わかりやすく解説

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ブレジネフとフルシチョフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 14:12 UTC 版)

レオニード・ブレジネフ」の記事における「ブレジネフとフルシチョフ」の解説

1953年3月スターリン死去し党幹部会が廃止され、より小さな政治局再構成された。ブレジネフ政治局員にこそならなかったが、その代わり中将階級と共にソ連軍政治総局第一代理任命された。これは恐らく彼の後援者フルシチョフによる人事だった。1954年カザフスタン共産党中央委員会第二書記となり、1955年5月カザフスタン共産党中央委員会第一書記として、カザフスタン開拓事業指導した1956年2月ブレジネフモスクワへ呼び戻され共産党中央委員会政治局候補書記として防衛産業宇宙計画重工業及び首都建設指揮任務与えられた。彼はフルシチョフ側近となり、1957年6月ヴャチェスラフ・モロトフ率いスターリン古老グループゲオルギー・マレンコフラーザリ・カガノーヴィチらとフルシチョフとの党の指導争いに於いてフルシチョフ支持した古老グループ排除した後、ブレジネフ正式に政治局員となった1959年ブレジネフソビエト連邦最高会議幹部会副議長となり、1960年5月議長就任し名目上国家元首になった実権は党第一書記フルシチョフ握っていたが、議長ポスト外国への旅行可能にした。彼は高価な西側衣服自動車対す興味深め、それは後に彼に対す悪評となった1962年までフルシチョフ党指導者としての地位安泰だった。しかし彼が年老いると共に、その指導力低下が他の指導陣の信頼弱め地位不安定なものとなった。さらにソ連経済問題悪化フルシチョフ対す圧力増加させた。表面ブレジネフフルシチョフ忠実であったが、ニコライ・イグナトフやアレクサンドル・シェレーピン働きかけ1963年にはフルシチョフ追放計画加担することとなったこの年にはまたフルシチョフ後継者とされていたが、酒により健康を害したフロル・コズロフ後任(一時短期間ミハイル・スースロフ担当)として第二書記兼ねたが、翌1964年7月最高会議幹部会議長フルシチョフ親しかったアナスタス・ミコヤンに譲らされ、第二書記専念する事になる。その3か月後の10月13日及び14日開かれた臨時中央委員会総会フルシチョフ年金生活に入るために「自発的に党中央委員会第一書記閣僚会議議長首相)の地位辞任した事実上解任)。ブレジネフは党第一書記となり、アレクセイ・コスイギン首相になった。ミコヤン最高会議幹部会議長にしばらく留まったが、1965年12月事実上失脚し1966年4月政治局員解任される。)、後任ニコライ・ポドゴルヌイ就任する

※この「ブレジネフとフルシチョフ」の解説は、「レオニード・ブレジネフ」の解説の一部です。
「ブレジネフとフルシチョフ」を含む「レオニード・ブレジネフ」の記事については、「レオニード・ブレジネフ」の概要を参照ください。

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