フルーリー枢機卿の執政
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「ルイ15世 (フランス王)」の記事における「フルーリー枢機卿の執政」の解説
フルーリー枢機卿は1726年から死去する1743年まで、ルイ15世の信任の下フランスを統治した。この時期はルイ15世の治世下では最も平和で繁栄した時代であり、ルイ14世期の戦争による人的物質的損失からの「回復」の時代(gouvernement "réparateur")と呼ばれている。 フルーリー枢機卿は大蔵卿ミシェル・ロベール・ル・ペルティエ・デ・フォール(1726年 - 1730年)と後任のフィリベール・オリ(1730年 - 1745年)の助けを受けて、1726年に貨幣を安定化させ、1736年には収支の均衡に成功した。また1738年にはサン・カンタン運河を開通させてオワーズ川とソンム川をつなぎ、後にスヘルデ川とネーデルラントにまで拡張している。国立土木学校が創立され、土木事業が進められて、フランス各地に近代的な道路が舗装された。海上交通も急成長して、フランスの貿易額は1716年から1748年までの間に8000万リーブルから3億800万リーブルに増加している。一方で、ルイ14世時代のコルベールによって定められた経済・社会機構統制(dirigisme)のために産業の発展は遅滞している。 宗教面ではジャンセリストとガリカニリストの反抗を抑え込み、外交面ではフルーリーはイギリスとの同盟を継続させるとともにスペインとの和解に努めている。 1729年、王妃が3度目の出産で王太子ルイ・フェルディナンを生んだ。待望の王位継承者である男子の出産にフランス国民は喝采し、国王の人気は大いに高まった。この王太子の誕生により、王位継承問題とスペインとの戦争の危機を回避することができた。 1733年、外務卿ジェルマン・ルイ・ショーブランの勧めにより、ルイ15世はフルーリーの平和政策を一時放棄してポーランド継承戦争に介入する。この戦争は王妃の父スタニスワフ・レシチニスキを復位させることと、神聖ローマ皇帝カール6世の皇女マリア・テレジアの婚約者フランソワ・エティエンヌ(後の皇帝フランツ1世)からロレーヌ公国を奪うことが目的だった。 フランス軍はロレーヌを占領し、1738年にウィーン条約が結ばれて、スタニスワフにはポーランド王位放棄の代わりにロレーヌ公国が与えられ、フランソワはロレーヌの代償としてトスカーナ大公国の公位継承者となる。1766年にスタニスワフが死去すると、ロレーヌは義理の息子ルイ15世が相続してフランスに併合され、これがブルボン朝におけるフランス領土拡大の最後となった。その後、フランスがオーストリアとオスマン帝国との調停を行ってベオグラード条約が締結された。条約はオスマン帝国に有利な内容で、これは16世紀以来のフランス・オスマン同盟の効果である。この結果、オスマン帝国はフランスのカピチュレーション(帝国内における外国人の恩恵的特権)を更新し、フランスは中東地域における貿易の優位を確保した。これらの成功により、ルイ15世の権威は大いに高まった。 私生活でルイ15世は、王妃マリー・レクザンスカと結婚から数年間は仲睦まじかったが、王妃はほぼ毎年妊娠させられると夫婦生活を厭うようになり始め、一方、ルイ15世も王妃が生んだ子の多くが女子だったことに憤っていた。王妃は11人中2人しか男子を生まず、2人のうち王太子ルイ・フェルディナンだけが成人している。王妃がほぼ年中妊娠していたこともあって、ルイ15世は1734年頃から公的愛妾を持つようになり、ネール侯爵家の姉妹を寵愛した。最初にマイイ夫人、次に妹のヴァンティミーユ夫人そしてシャトール侯爵夫人である。 1739年以降、ルイ15世は国王が病人に手を触れて病を治す奇蹟の儀式を止めてしまう。これは不倫を繰り返すルイ15世が自ら、神聖な儀式を行う資格がないと考えたためとされている。だが、このことにより国王の神聖性の権威が損なわれる結果となった。 1740年のカール6世の崩御とマリア・テレジアのハプスブルク家相続はオーストリア継承戦争を引き起こす。90歳近いフルーリー枢機卿には参戦に反対する気力はなく、フランスは1741年にプロイセン側で参戦した。戦時中の1743年にフルーリーが死去すると、ルイ15世は先王ルイ14世に倣い、以後宰相を置かないことを宣言する。
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