フリーランス・ライター
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「マージョリー・ストーンマン・ダグラス」の記事における「フリーランス・ライター」の解説
マージョリーは1923年に新聞社を辞めた後、フリーランス・ライターとして働いた。1920年から1990年まで、109編の小説と短編を出版した。その初期の短編の1つはパルプ・マガジンの「ブラック・マスク」に600ドルで売れた(2016年では8,820米ドルに相当)。その短編の40編は「サタディ・イブニング・ポスト」に掲載された。その中で『家庭的な女性の話』は1937年に同誌のベスト短編集に再掲された。彼女の小説に繰り返されるモティーフは第一次世界大戦中の南フロリダ、カリブ海、あるいはヨーロッパを舞台とするものだった。その主人公は自立した奇抜な女性、あるいは若い弱者であり、社会や自然の不公平に遭遇することが多かった。エバーグレーズの人や動物がその初期の著作の幾つかで主題とされていた。当初「サタディ・イブニング・ポスト」に1930年に掲載された『羽飾り』は、密猟者に殺害された全米オーデュボン協会森林警備員のガイ・ブラッドリーの話に基づいていた。やはり「サタディ・イブニング・ポスト」に1931年に掲載された『ウィングス』はノンフィクションであり、羽を集めるためにエバーグレーズの水鳥を殺害することを問題にしていた。『王様の特別な宝』は1928年のオー・ヘンリー賞最終選考で、第2位になった。 1930年代、マージョリーは「南フロリダで熱帯植物園を設立するための議論」とよぶ植物園を支持する小冊子を作るよう注文を受けた。その小冊子の成功でガーデンクラブの要求に合うようになり、地域全体で演説を行い、フェアチャイルド庭園を支持する理事会の委員を務めた。彼女はその庭園を「地域全体のために最大級の成果」と呼んだ。 マージョリーはマイアミ劇場に関わり、1930年代にもてはやされた1幕物戯曲を幾つか書いた。『絞首台の門』と題された劇は、絞首刑を宣告された息子の性格を問題にした母と父の議論についてである。この戯曲のアイディアを父から得ており、父は西部に住んでいたときに絞首刑を目撃して、処刑された体の重みに耐えるロープの軋り音に狼狽した経験があった。この劇は州のコンペで優勝し、3幕物に書き直された後で、全国大会に出されて賞金500ドルを得た。新聞記者のヘレン・ミューアの夫、ウィリアム・W・ミューアと共に、『嵐の警告』と題する戯曲を書いた。これはギャングのアル・カポネの生涯を漫然と追ったものだった。カポネの子分の幾人かが劇場に現れ、「その夜の観衆に特別な興奮を与えた」が実際の問題は起きなかった。作家・連邦プロジェクトによるアメリカのガイド・シリーズの一環として、1941年に出版された公共事業促進局のマイアミと周辺へのガイドには序文を書いた。 マージョリーは1942年から1949年に「マイアミ・ヘラルド」の書評編集者、1960年から1963年にマイアミ大学プレスの編集者を務めた。1952年、『太陽への道』と題した最初の小説を出版した。小説4冊とフロリダのバードウォッチングやデイビッド・フェアチャイルドなど地域の話題に関するノンフィクションも幾つか書いた。フェアチャイルド昆虫学者が生物学者に転じた者であり、マイアミの植物園の構想を描いた。『マージョリー・ストーンマン・ダグラス: 川の声』と題する自叙伝は1987年にジョン・ロスチャイルドとの共同執筆だった。長年、鳥類学者ウィリアム・ハドソンに関する著書を書いており、アルゼンチンからイングランドまで数回旅した。この作品はマージョリーが1998年に死去して、未完に終わった。
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