フリーランスの助監督として
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「小川欽也」の記事における「フリーランスの助監督として」の解説
1934年(昭和9年)12月28日、京都府京都市下京区烏丸通綾小路下ルに生まれる。父は三代目中村時蔵の弟子・中村時二郎(生没年不詳)、叔父に新派系の元子役の映画俳優、小川國松(1908年 - 没年不詳)、小川英麿(1912年 - 没年不詳)がいる。小川の誕生のころに新興キネマにいた俳優の「小川欽也」(小川欣也)は別人である。幼少時から歌舞伎、映画に親しむ。 1953年(昭和28年)3月、東京都立三田高等学校を卒業、中央大学経済学部に進学する。1957年(昭和32年)3月、同学を卒業するとともに映画界に入るが、最初からフリーランスの助監督として、連合映画、富士映画、京都映画を渡り歩いた。『日本映画監督全集』の小川の項で川島のぶ子は、小川が助監督についた監督として、山本弘之、田口哲、渡辺祐介、近江俊郎、小林悟、曲谷守平、渡辺邦男、小森白、井田探を挙げているが、山本弘之がこの時期に監督した作品は、新映画が製作した『蜘蛛男』(配給大映、1958年6月29日公開)のみである。この時期に連合映画での監督作があるのは渡辺邦男のみ、『アンコールワット物語 美しき哀愁』(配給東宝、1958年3月25日公開)のみである。この時期の京都映画で監督した者は挙がっていないが、1957年に内川清一郎、マキノ雅弘、穂積利昌が監督している撮影所である。井田探が日活の社員であったほかは、これらの監督はみな富士映画および新東宝で作品を発表していた人物である。 1959年(昭和34年)、ニッサンプロダクションが小川に連続テレビ映画『大海獣ゲボラ』のパイロット版製作を発注、小川は6話分を製作・監督した。しかし同作は実現せず、翌1960年(昭和35年)、『怪獣マリンコング』として結実したが、小川はこれには関わっていない。 その後、富士映画に戻り、次には京都の日本電波映画で助監督を務めた。当時の日本電波映画はテレビ映画のみを製作しており、同社撮影所での作品的には『矢車剣之助』(製作日米映画、1959年 - 1961年)、『琴姫七変化』(1960年 - 1962年)の時期にあたる。1962年(昭和37年)1月に富士映画を母体に大蔵貢が設立した大蔵映画に入社したという。同年、大蔵映画設立第一作『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(監督小森白)が公開される前後に製作された成人映画『肉体の市場(英語版)』(同年2月27日公開)、『不完全結婚』(共同監督木元健太、同年5月1日公開)、『沖縄怪談逆吊り幽霊 支那怪談死棺破り』(共同監督邵羅輝(中国語版)、同年6月13日公開)では、チーフ助監督としてクレジットされ、4歳上の監督・小林悟を支えた。『太平洋戦争と姫ゆり部隊』では、小川も助監督を務め、格下の助手に若松孝二がいた。同年10月16日に放映を開始した連続テレビ映画『がんばれ!!大作』でメイン監督の曲谷守平を支えつつ、自らも監督としてデビューした。同時期に、黒澤明のプロデューサーとして知られた本木荘二郎が監督した『肉体自由貿易』(1962年11月公開)、『毒ある愛撫』(1963年12月3日公開)の助監督も務めている。
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