黒澤明のプロデューサー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 13:45 UTC 版)
「本木荘二郎」の記事における「黒澤明のプロデューサー」の解説
1938年(昭和13年)4月、東宝映画に入社、製作課に配属される。入社後は撮影所近くの下宿で生活したが、自分の部屋から3歳年上の黒澤明の部屋で暮らすようになり、兄弟のような親しい関係になる。 1940年(昭和15年)6月5日に公開された伏水修監督の『支那の夜 前篇』で「製作主任」としてクレジットされた記録がある。1941年(昭和16年)、劇映画部演出助手の辞令を受ける。戦時体制を迎えた1942年(昭和17年)には、マキノ正博(のちのマキノ雅弘)監督の『婦系図』『続婦系図』、翌1943年(昭和18年)には同監督の大作『阿片戦争』や『ハナ子さん』の演出助手を務めている。 東宝にプロデューサーシステムを導入した森岩雄常務からの君はプロデューサー向きだとの勧めで、1944年4月には「企画担当」の辞令を受け、1944年3月公開の山本嘉次郎監督『加藤隼戦闘隊』のチーフ助監督を最後に演出部を離れた。初プロデュース作品は同年の佐伯清監督の『天晴れ一心太助』。続けて成瀬巳喜男監督の『勝利の日まで』を製作。 翌1945年には黒澤明監督で時代劇『雑兵物語』を企画したが、4月に召集令状を受けて入隊、同年8月には終戦により復職した。その間に『雑兵物語』は『虎の尾を踏む男達』として完成していた。 1946年2月、「協同製作者」に就任、今井正監督の『民衆の敵』、山本嘉次郎、黒澤明、関川秀雄の3人が監督した『明日を創る人々』の製作に名を連ねている。同年、東宝争議が起きており、11月には大河内伝次郎、長谷川一夫らが労働組合を脱退、1947年(昭和22年)3月には、新東宝設立という事態になっており、東宝撮影所では製作が不可能になりつつあった。同年7月1日には、黒澤明単独監督作での初のタッグである『素晴らしき日曜日』が公開される。争議の動きを受け、本木製作、黒澤明監督の『酔いどれ天使』が公開された1948年(昭和23年)4月には、東宝を依願退職した。山本嘉次郎、成瀬巳喜男、黒澤明、谷口千吉らの「映画芸術協会」の設立に参加する。この「映画芸術協会」の幹事長たる本木は黒澤明の『野良犬』『醜聞』『羅生門』を手がける。 1951年、『白痴』の撮影中に労働争議が終わった東宝に専属プロデューサーとして復帰し、この頃に女優の浜田百合子と再婚。東京都世田谷区弦巻に豪邸を建て、運転手付きで車に乗った。東宝では、1952年(昭和27年)10月9日には本木製作、黒澤監督の『生きる』、同年12月4日には本木製作、マキノ監督の『次郎長三国志 第一部 次郎長売出す』が公開された。他にも黒澤の『七人の侍』『生きものの記録』などをプロデュースしたが、1957年1月15日に公開の『蜘蛛巣城』を最後に訣別、この作品が黒澤との最後の仕事になった。
※この「黒澤明のプロデューサー」の解説は、「本木荘二郎」の解説の一部です。
「黒澤明のプロデューサー」を含む「本木荘二郎」の記事については、「本木荘二郎」の概要を参照ください。
- 黒澤明のプロデューサーのページへのリンク