フィクションにおける美幾
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小説家の渡辺淳一は、1973年(昭和48年)に当時順天堂大学の教授を務めていた小川鼎三から、日本における志願解剖の第1号が吉原の遊女であったという話を聞いた。渡辺は当初、何かの記録違いではないかと思い即座に信用できなかったというが、小川は美幾の名と念速寺の墓地のことまでを渡辺に教えた。それ以来、渡辺は美幾の存在に強い興味を覚えるようになった。渡辺は同年12月に念速寺を訪問した。墓に詣でて住職から美幾についての話を聞き、自らの医学生時代に実習で年若い女性の死体解剖に当たった体験などとと重ね合わせつつイメージを育て上げていった。 渡辺は美幾の生涯を題材に、小説『白き旅立ち』を書き上げて小説新潮の1974年3月号から5月号にかけて連載した。この作品中では、宇都宮鉱之進は美幾の馴染み客として描かれた。美幾は宇都宮から解剖についての知識を得て、後に労咳が悪化した後に彼の縁で小石川養生所へ入院し、篤志解剖の申請手続きは円滑に行われたこととされた。作中で美幾は養生所で出会った滝川長安という若き医師に密かに想いを寄せ、彼が解剖こそ日本医学の発展に不可欠だと説いているのを聞き、死後に自らの体を提供する約束をした後に生涯を終えている。 『白き旅立ち』について詩人で文芸評論家の郷原宏は「伝記小説の秀作」と評し、美幾のことを「作者のペンによって発見され、発掘されたヒロインである」と記述した。郷原はさらに「篇中至るところに医学と文学の最も理想的な協調を見い出すことができる」と高い評価を与えた。 吉村昭の小説『梅の刺青』は、美幾の腕に刻まれていたという刺青から題を得ている。吉村は美幾の解剖に立ち会った医学者石黒忠悳の子孫から当時の日記を見せてもらう機会を得た。石黒の日記中に彼女の腕に梅の小枝を描いた刺青があったとの記載を見つけた吉村は、そのことに衝撃を受けた旨を記述している。 この小説は、宇都宮鉱之進が1868年(明治元年)11月に医学所宛てに自身の献体の願い書を提出するところから始まり、最後は解剖された人々の慰霊のため1881年(明治14年)に建立された谷中墓地内にある千人塚の場面で終わる。小説内では、美幾の解剖時に執刀者となった人物を田口和美(たぐち かずよし、後に東京大学医学部解剖学の初代教授となった)、説明者となった人物を桐原真節(きりはら しんせつ、後に東京大学附属病院の初代院長を務めた)としている。 『梅の刺青』は、あとがきで作者の吉村が述べているとおり、日本での初期解剖の歴史を主題としている。美幾のことについては、東京大学医学部解剖学教室が取り扱った解剖の歴史的事実と捉えて小説化した。吉村は美幾のことを、小川の後任に当たる順天堂大学教授酒井シヅから教示されたと小説のあとがきで述べている<。 2004年に公開された塚本晋也の映画『ヴィタール』は、人間の肉体と意識あるいは魂の関連を取り上げた作品である。映画の主人公で人体解剖に耽溺する記憶喪失の医学生高木(浅野忠信)にはレオナルド・ダ・ヴィンチ、高木の幻想の中に繰り返して現れるヒロイン、涼子(柄本奈美)には美幾のイメージがそれぞれ投影されているという。
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