バイエルンへの編入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 02:41 UTC 版)
「ツィルンドルフ」の記事における「バイエルンへの編入」の解説
マクシミリアン1世の即位により、ツィルンドルフは1806年にバイエルン王国領となった。この町には135棟の建物があり、1,494人が住んでいた。 市町村令に伴い、1808年にシュトイアーディストリクト(徴税区)・ツィルンドルフが創設された。これにはアルテ・フェステが含まれた。同じ年にルーラルゲマインデ(現代の町村にあたる)・ツィルンドルフが創設されたが、その範囲は上記の徴税区のセクション I. と同じであった。このゲマインデは、行政と裁判はニュルンベルク地方裁判所、財政はレントアムト・フュルト(1920年にフィナンツアムト・フュルトと改名)の下に置かれた。1862年からツィルンドルフはベツィルクスアムト・フュルト(1938年にフュルト郡と改名)の管轄下に置かれた。裁判権は1862年にフュルト地方裁判所に移され、さらに1880年からはフュルト区裁判所に移管された。 19世紀半ばには、ツィルンドルフも小さな工業都市に発展していた。この町は、森林監視所と外科病院の所在地であった。1人の臨床医、9人のパン職人、2人の鍛冶職人、5人の桶職人、9人の木地師、2人の彫金師、2人の櫛職人、2人の画家、6人の粉挽き、2人の綱職人、2人の鍵職人、11人の仕立屋、4人の家具職人、22人の靴職人、2人の車作職人、2人の大工、14人の織物職人がいた。また、郵便施設が設けられ(1860年)、1日2回フュルトからの郵便馬車が利用可能であった。1877年に電信局が開局し、1895年に最初の公衆電話が設置された。ツィルンドルフ消防団は1862年に創設された。これはバイエルンで最も古い村の消防団の1つである。 1877年に最初の工場が建設された。ツィルンドルフには世界的に有名な玩具会社(独楽、ラッパ、おもちゃの楽器、積み木、ブリキのおもちゃなど)があった。この頃すでに17社の鏡工場および玩具工場があった。彫金マイスターのコンラート・フラウエンシュレーガーがツィルンドルフにおける玩具産業の創始者であった。彼は数人の徒弟や内職とともに最初の玩具を製作した。1890年には最初の印刷新聞「アルゲマイネ・ルントシャウ」がレオンハルト・ツェヒによって刊行された。この新聞は1891年にヨハネス・ボルマン印刷社に引き継がれた(2011年現在も存続している)。 1877年にバイエルン王ルートヴィヒ2世はツィルンドルフに市場開催権を授けた。1890年11月30日以降、フュルトからのランガウ鉄道はツィルンドルフを終点とした。1892年10月14日にカードルツブルクへの延伸区間が開通するまでツィルンドルフはこの路線の終着駅であった。工業市場の安全性を確保するために、1899年1月15日、ウンターフランケンの憲兵フリッツ・ロッケンマイアーが主権的業務を執行した。1899年に小さな発電所 (37 kW / 50 PS) が設けられた。工業化が始まるまですべてのツィルンドルフ住民は福音主義の信者であった。多くのカトリック信者の家族が流入し、必要になったことから、1904年11月2日に独自の礼拝堂が聖ヨーゼフに献堂された。 20世紀初め頃に、この市場町を市に昇格させる請願がバイエルン王国の内務省に対して繰り返しなされた(1889年、1904年、1905年)。しかしこの請願は、上水道整備、河川改修、道路建設(舗装)、ゴミ処理場建設、その他の重要な公共施設や社会福祉施設が不足しているという理由で却下された。短期間のうちに、この目標を達成するための努力がなされた。ライフラインやゴミ処理が強化され、道路が整備され、街灯が設置され、貯蓄銀行が建設され、ガス工場が設けられ、中央校舎と職業学校が開設された。1911年10月15日、ツィルンドルフはバイエルンの摂政ルイトポルト・フォン・バイエルンから都市権を授けられた。同じ年に独自の都市警察が組織された。
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