バイエルンからの皇后候補
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 17:41 UTC 版)
「フランツ・ヨーゼフ1世」の記事における「バイエルンからの皇后候補」の解説
次善の策として母が目をつけたのは、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系バイエルン公家の公女で、皇帝にとっては母方の従妹にあたるヘレーネ・イン・バイエルンだった。1853年2月18日の夜、フランツ・ヨーゼフとヘレーネの見合いを兼ねて、外国からの賓客を招いた舞踏会が催される予定だったが、当日の昼にリベーニによる皇帝襲撃事件が起こり、見合いは延期となった。 8月18日に満23歳になる皇帝の誕生日の祝賀をするという名目で、母ゾフィーはミュンヘンから妹ルドヴィカと姪を招待した。こうして8月16日、ウィーンとミュンヘンのほぼ中間に位置する避暑地バート・イシュルの地で両者の見合いが行われたが、この時フランツ・ヨーゼフは、社交界に慣れさせるためにヘレーネと一緒に連れてこられたその妹エリーザベトに一目惚れをした。顔合わせの際にはヘレーネには見向きもせずにエリーザベトに熱い視線を注ぎ、その後の夜会でもヘレーネにはほとんど無関心でエリーザベトとばかり言葉を交わしていた。 翌17日の朝、母ゾフィーの部屋を訪れると、エリーザベトがいかに魅力的であるかを情熱的に語った。ゾフィーがヘレーネについての意見を訊ねても、フランツ・ヨーゼフはすぐにその話をエリーザベトについてのものに変えてしまった。夕べに舞踏会が催されたが、そこでもエリーザベトとしか踊ろうとしなかった。それまで自分の言うことにはすべて従っていた息子が、自分の選んだヘレーネには目もくれないというこの状況を前にして、母ゾフィーは非常に困惑した。結局のところゾフィーはフランツ・ヨーゼフに押し切られる形で結婚を了承することになる。この時ほどフランツ・ヨーゼフが自分の感情を表に出したことはなかったと伝えられる。
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バイエルンからの皇后候補
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:46 UTC 版)
「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「バイエルンからの皇后候補」の解説
次善の策として母が目をつけたのは、バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系バイエルン公家の公女で、皇帝にとっては母方の従妹にあたるヘレーネ・イン・バイエルンだった。1853年2月18日の夜、フランツ・ヨーゼフとヘレーネの見合いを兼ねて、外国からの賓客を招いた舞踏会が催される予定だったが、当日の昼にリベーニによる皇帝襲撃事件が起こり、見合いは延期となった。 8月18日に満23歳になる皇帝の誕生日の祝賀をするという名目で、母ゾフィーはミュンヘンから妹ルドヴィカと姪を招待した。こうして8月16日、ウィーンとミュンヘンのほぼ中間に位置する避暑地バート・イシュルの地で両者の見合いが行われたが、この時フランツ・ヨーゼフは、社交界に慣れさせるためにヘレーネと一緒に連れてこられたその妹エリーザベトに一目惚れをした。顔合わせの際にはヘレーネには見向きもせずにエリーザベトに熱い視線を注ぎ、その後の夜会でもヘレーネにはほとんど無関心でエリーザベトとばかり言葉を交わしていた。 翌17日の朝、母ゾフィーの部屋を訪れると、エリーザベトがいかに魅力的であるかを情熱的に語った。ゾフィーがヘレーネについての意見を訊ねても、フランツ・ヨーゼフはすぐにその話をエリーザベトについてのものに変えてしまった。夕べに舞踏会が催されたが、そこでもエリーザベトとしか踊ろうとしなかった。それまで自分の言うことにはすべて従っていた息子が、自分の選んだヘレーネには目もくれないというこの状況を前にして、母ゾフィーは非常に困惑した。結局のところゾフィーはフランツ・ヨーゼフに押し切られる形で結婚を了承することになる。この時ほどフランツ・ヨーゼフが自分の感情を表に出したことはなかったと伝えられる。
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