ハル研究所在籍時代(1989年 - 2003年)
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「桜井政博」の記事における「ハル研究所在籍時代(1989年 - 2003年)」の解説
入社してまもなく社内で募集された「だれもが楽しめるゲームの企画」から構想を練っていったが、3年後の1992年、当時22歳にして初のディレクターを務めたのが、ゲームボーイソフト『星のカービィ』である。同作は日本のみならず全世界累計500万本以上を売り上げるヒットとなり、同時にこれが会社の経営危機を救済することにもなる。『星のカービィ』は主役のキャラクターデザインから吸い込み・吐き出し・ホバリングといったゲームシステムの大部分を桜井が企画し、グラフィックを描き起こした。 会社再建をかけた次回作『星のカービィ 夢の泉の物語』もディレクターを務め、前作でウィークポイントに挙がった難易度の低さをコピー能力の導入や大幅なボリュームアップで補った。その結果1993年発売時は既にハード終焉期だったにもかかわらず、ファミコン最後のミリオンセラーを達成するほどであった。 1996年には、『夢の泉の物語』以来の大幅なシステムとコピー能力の増強を図ったスーパーファミコン用ソフト『星のカービィ スーパーデラックス』を制作指揮した。同作品は宮本茂から「横スクロールアクションゲームで二人同時プレイができるようにしてほしい」との課題を出され制作したもので、ゲームシステムだけでなく、グラフィックも2Dという制約の中で(社員も認めるほど)無駄のない完成度となっており、未だに高い人気を誇っている。 1999年に発売されたNINTENDO64用ソフト『ニンテンドウオールスター!大乱闘スマッシュブラザーズ』は、1996年10月当初から4人同時対戦型の体力ゲージの存在しない独特の2.5Dアクション格闘ゲームとして企画していたが、コンシューマの格ゲーはオリジナルキャラクターでは売れないというジンクスがあったため、桜井はスーパーマリオやサムス・アランといった任天堂のキャラクターを使用させてもらえないか、本社及び宮本茂らへ交渉しに行った。また上司だった岩田聡の人脈も相当頼っていたようである。発売時は任天堂キャラが戦い合うことに社内で戸惑いもあり、目立ったメディアへの露出はされなかった。しかし自らが「スマブラ拳!!」なるオフィシャル攻略サイトを立ち上げたり、口コミが広がったりしたことで、本作は最終的に国内で200万本に近いメガヒットを記録した。 桜井はこの頃から「ゲームクリエイターとしての制作活動だけでなく、広告含めたユーザに対する認知・理解のための活動」を強めるとともに「開発者とユーザーのコミュニケーション・双方からの意見交換」に関する活動を積極化させてくる。自身が開いたウェブサイト『スマブラ拳!!』では「アンケート集計拳!!」というある種のメールフォーラムを開き、ユーザから桜井宛のメッセージを送れるようにするとともに、桜井もそれらの一部に対してコメントを掲示するなどして、双方からの交流を図っていた。下記の雑誌コラムにおいても読者からの手紙への返事や、開発者側としての業界の現状表明などを行っている。 なお、桜井はゲーム製作者となった後も、熱心な現役ゲームユーザであり続けている。ゲーム雑誌『週刊ファミ通』で2003年から連載を始めたコラム『桜井政博のゲームについて思うこと』の内容は今なお現役ユーザだからこそ書けるという側面があり、さらに連載のきっかけも桜井がオンラインゲーム『ファイナルファンタジーXI』で一般のプレイヤーとして遊んでいる際に『ファミ通』編集者が発見し、桜井だと気づいたのが始まりである。
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