ハル研究所社長時代 (1993年-2000年)
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「岩田聡」の記事における「ハル研究所社長時代 (1993年-2000年)」の解説
1992年、ハル研究所はゲーム事業の不振と不動産投資の失敗により多額の負債を抱えて経営危機に陥り、和議を申請する。そうした中で、1993年3月、取締役開発部長であった岩田が代表取締役社長に就任した。これは、「岩田が社長をやるなら助ける」という援助者が現れたことがきっかけといわれている。 岩田はそれまで経営とはほぼ無縁の立場であったが、社長として優れた経営手腕を発揮。『星のカービィ』シリーズなどのヒット作品が生まれたこともあり、15億円あった負債をこののち6年間で完済、ハル研究所の経営再建を成し遂げる。 社長就任後、会社や仕事への不満を聞き取る目的で全社員との面談を実施した。この中で、社員との対話を重ねることが組織運営力や勤務意欲の向上に繋がると感じた岩田は、以降、この面談を半年に一度のペースで行うようになった。ちなみに、後に任天堂社長になった際には、全社員ではないものの、直属に近い部下に対して同様の面談を行っている。 社長業の傍らでプログラマとしての活動も続けた。当初は開発に関与していなかった『MOTHER2 ギーグの逆襲』が約4年の歳月を経ても完成せずに行き詰っていた際には、開発現場に出向き、「いまあるものを活かしながら手直ししていく方法だと2年かかります。イチからつくり直していいのであれば、半年でやります」と申し出て開発を請け負った。その後、宣言通りに半年で大枠が出来上がり、そこから更に半年で内容に磨きを掛けて、結果、約1年で完成させた。この作品の開発がきっかけとなってシリーズ生みの親である糸井重里との親交が深まり、その後、糸井のホームページ『ほぼ日刊イトイ新聞』の立ち上げにも協力した。 また、『ポケットモンスター』(ポケモン)シリーズを手掛ける株式会社クリーチャーズの役員を岩田が務めていた縁もあり、『ポケットモンスター 赤・緑』(以下『赤・緑』)の海外向けローカライズ作業や『赤・緑』の戦闘プログラムの『ポケモンスタジアム』への移植、更には『ポケットモンスター 金・銀』のグラフィック圧縮ツールの作成も行った。
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