ハル研究所社長就任前 (1981年-1993年)
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「岩田聡」の記事における「ハル研究所社長就任前 (1981年-1993年)」の解説
大学在学中、前述の西武池袋本店に勤めていた店員が「株式会社ハル研究所」(HAL研究所、通称「ハル研」)の設立に関わることになり、店の常連だった岩田と友人は誘いを受けてアルバイトとして勤務する。そこで岩田はプログラミングに熱中し、大学卒業後、そのままハル研究所の正社員となる。それまでのハル研究所にはソフトウェア開発を担当する社員がおらず、岩田はその第一号となった。なお、当時のハル研究所は社員数5人の零細企業であったため、岩田の両親は息子の進路に反対し、特に父親とは入社から半年ほど口を利かなかったという。 入社2年目の時、1983年7月15日に、任天堂から家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」(ファミコン)が発売される。これに強い関心を持った岩田は、京都市にある任天堂に直接出向いて仕事請負の申し出を行い、結果、『ピンボール』『ゴルフ』といったファミコンソフトのプログラミングを担当することになった。また、1985年1月に発売された『バルーンファイト』のファミコン版の担当時には、既存のアーケードゲーム版よりも滑らかなキャラクターの動きを実現した。アーケードゲーム版のプログラマーだった株式会社SRDの中郷俊彦は岩田の元を訪れてノウハウを聞き、それが、同年9月に発売される『スーパーマリオブラザーズ』の水中ステージに活かされることになった。更に、エニックスのソフト『ドラゴンクエスト』の北米版『Dragon Warrior』を任天堂が発売する際にはローカライズ作業を担当した。なお、後に深く関わることになる任天堂の宮本茂とは、1988年発売の『ファミコングランプリII 3Dホットラリー』で初めて共同開発を行った。
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