ナタール共和国におけるブラー将軍の配下として
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「ヘンリー・ヒューズ・ウィルソン」の記事における「ナタール共和国におけるブラー将軍の配下として」の解説
1899年に緊張が再び高まり、英国ケープ植民地の知事(高等弁務官)アルフレッド・ミルナー卿が、1万人の兵士が送り込まれるべきと要求していた時、ヘンリーは(7月4日に)4万人が送り込まれるべきと書き記している(結果的には、44万8千人の白人兵士と4万5千人のアフリカ人兵士が8万7千人のボーア軍と戦うために動員された)。ヘンリーは、第3旅団(現在のオールダーショット駐屯の第4又は「軽」旅団。10月9日からネヴィル・リテルトン将軍(英語版)の指揮下になっていた)付の少佐となった。第二次ボーア戦争は1899年10月に宣戦が布告され、ヘンリーは11月18日、ケープタウンに到着した。 ヘンリーの旅団は、ナタール共和国に送られ、11月後半までにボーア軍に包囲されていた同国の都市レディスミスから509マイルのモーイ川付近に野営した。旅団は、12月15日のコレンゾー(Colenso)の戦いに参加したが、不十分な砲撃の後に進軍して、連発式小銃を装備して塹壕に広範囲に隠れていたボーア兵に撃退された。ヘンリーは後に、「アフリカ南部における戦争の歴史」を執筆していたレオ・アメリー(前述)に注意を書き送り、ヘンリー・ヒルデヤード大将(英語版)の第2旅団が開放隊形で進軍したため、アーサー・フィッツロイ・ハート少将の第5(アイルランド)旅団の密集隊形による攻撃よりもいかに軽微な死傷者で済んだかを伝えた。コレンゾーの戦いは、ウィリアム・フォーブズ・ガタクレ中将(英語版)の12月10日のストームベルグの戦いにおける敗北、ポール・サンフォード・メシュエン将軍(後の元帥)(英語版)のマゲルスフォンテーン(Magersfontein)の戦いにおける敗北(12月11日)に続く、暗黒の一週間における第三の敗北であった。ヘンリーは、「ここにはうまくいくことがなく、R.B.(レドバース・ブラー将軍)の精神(絶え間なく揺れ動く)がある(1900年1月3日)。」と綴っている。レドバース・ブラー将軍(英語版)は、総司令官をロバーツ卿と交替していたにもかかわらず、引き続きナタール共和国で指揮を執っており、チャールズ・ウォーレン将軍(英語版)の第5師団を待っていた。レディスミス包囲戦における敵の砲撃は、ブラー将軍の陣地からも聞こえたが、彼はヘンリーの提案(軽旅団が15マイル上流のツゲラ川(英語版)のポトガイター(Potgieter)の浅瀬を渡河する)を拒否した。ヘンリーは、12月16日以降の遅延とブラー将軍のリテルトン将軍や他の上級士官達との情報共有の失敗を批判している。結局、ブラー将軍は、1月16日になってリテルトン将軍に同地点の渡河を、翌日には彼の増援された部隊の大半が5マイル上流のトリハート(Trikhardt)の浅瀬を渡河することをそれぞれ許可している。ヘンリーは、トリハートの浅瀬を渡河する間に実施した軽旅団によるけん制砲撃を称賛された。 続いて起こったスピオン・コップ (Spion Kop) の戦い(1月24日まで)の間、ヘンリーはブラー将軍について、適切なスタッフや意思疎通の能力、そしてブラー将軍が配置したウォーレン将軍との連携がいずれも不足していることを批判した。戦いの後(おそらく彼がロバーツ卿に向けて1902年1月に)書かれた報告では、ヘンリーは、スピオン・コップの東北東2マイルのシュガーローフ(the Sugar Loaf、リテルトン将軍の軍勢が3方向から攻められていた)を占領するため、バスーン・バッカニアズ(Bethune’s Buccaneers、騎馬歩兵)だけでなく2個大隊(キャメロニアンズ(スコッティッシュ・ライフルズ)大隊(Cameronians (Scottish Rifles))と第60王立ライフルズ大隊)を送り込んで敵の圧力をそらしたかったと主張している。リテルトン将軍は25年後に、ヘンリーが自分ではなくウォーレン将軍に増援を送る提案をしたと主張したが、ヘンリーの当時の日記は(不明瞭ではあるが)、リテルトン将軍がいるシュガーローフを確保するため「我々」は第60王立ライフルズ大隊を送り込み、一方バスーン騎馬歩兵とキャメロニアンズ大隊は、ウォーレン将軍を支援するためスピオン・コップに向かったが、同地が激戦となったので、リテルトン将軍はヘンリーの提案(第60王立ライフルズ大隊を支援するためシュガーローフにキャメロニアンズ大隊を転進させること)を断ったと主張している。 敗北後、ヘンリーは、ブラー将軍が2月5日までにレディスミスに到達するための前進や予測能力が欠如していたことを再び批判した。2月6日は、軽旅団が、翌晩のブラー将軍による撤退前にヴァール・クランツの戦い(英語版)でスピオン・コップの丘を占領している。ヘンリーは、ブラー将軍は兵力において塹壕襲撃のために必要な3倍の優勢がなく、その判断は正しかったと記録したが、2月20日までには再び、ブラー将軍が更なる勝利の手柄を立てるには動きが鈍いと不満を表明している。レオ・アメリー(前述)は後に、ヘンリーは司令官(ブラー将軍)を逮捕すべく旅団付の少佐を集めるよう提案したという悪意ある話を語っているが、実際、ヘンリーは当時、リテルトン将軍を尊敬しているように見えた。ヘンリーはまた、第5(アイルランド)旅団を指揮したアーサー・フィッツロイ・ハート少将を次の点で「完全なる恥辱、砲火を浴びてすっかり無分別、無力になった」と強く批判している。すなわち、2月24日に密集隊形でイニスキリング・ヒル(Inniskilling Hill)を攻撃したこと(ツゲラ高地の戦い(英語版)参照)、同日、軽旅団の一部であるダラム・ライト歩兵部隊を置き去りにして敵の攻撃にさらしたこと(ヘンリーはその陣地を訪れ、リテルトンとウォーレン両将軍に進言して、2月27日に彼らは撤退させられた)、軽旅団の監視兵を配置してほしいという要請を拒否し、ボーア軍による旅団本部への夜襲を防ぐ体制構築のためヘンリーを残したことである。軽旅団は、最終的に2月27日にイニスキリング・ヒルを占領し、レディスミスはその翌日に開放され、ヘンリーは同地で包囲されていた旧友のローリンソン大尉との再会を果たすことができた。 レディスミスの解放後、ヘンリーは引き続き、ブラー将軍とダグラス・コクラン伯爵(英語版)の貧弱な補給体制や弱いリーダーシップを強く批判した。プレトリア陥落後、ヘンリーは、ボーア軍はゲリラ戦に移行すると正確に予測したが、戦争が1902年の春まで続くとは思っていなかった。
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