ドゥジャイル事件裁判
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「バルザーン・イブラーヒーム・ハサン」の記事における「ドゥジャイル事件裁判」の解説
2004年7月、旧イラク特別法廷にて「人道に対する罪」などの容疑で訴追される。予備審問の際、法廷に連れて行くためにバルザーンの腕を警官が掴むと、「手を離せ。無礼だ」と警官に殴りかかろうとするなど興奮していた。予審判事に対しては無罪を主張。退廷する際に、さきほどの警官に謝罪したという。 2005年10月19日、イラク中部ドゥジャイルにて、拘束したシーア派住民に対し、取調べ中における拷問及び虐殺を行った容疑で、サッダームらと共に出廷し、2006年11月5日に絞首による死刑判決が言い渡された。 翌2007年1月15日にバルザーンに対して刑が執行された。アメリカ軍収容所からバグダード市内の刑執行所に連れてこられる際に激しく抵抗したとされ、絞首台に立たされた時にも「真の責任者は(前のムハーバラート長官)ファーディル・バッラークだ」と述べ、自身の無罪を抗弁し続けたとされる。 この時、刑執行の際にロープで首がちぎれてしまい、胴体と首が分離してしまうというアクシデントが起きた。スンナ派住民の中からは絞首刑で首が飛ぶはずがない、シーア派の執行人に首を斬られたのではないかという声も聞かれた。実際には、処刑用のロープが2.5mと長かったのが原因である。刑執行後、バルザーンの遺体は故郷ティクリートに運ばれ、アウジャ村のモスクにある墓地に埋葬された。
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ドゥジャイル事件裁判
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「ターハー・ヤースィーン・ラマダーン」の記事における「ドゥジャイル事件裁判」の解説
2004年、ラマダーンはイラク特別法廷(現・高等法廷)により「人道に対する罪」「大量虐殺」などの容疑で訴追される。2005年には、イラク中部の村ドゥジャイルで起きたサッダーム暗殺未遂事件の報復として、住民148人を拘束、取調べの末殺害したとされる事件(ドゥジャイル事件)に関わったとして、同事件を審理するイラク高等法廷に被告として出廷した。この事件でラマダーンは当時、第一副首相として暗殺事件に関わったと見られる住民の家屋、暗殺犯一味が逃れたと見られる村の果樹園の恣意的破壊、そして配下の人民軍を使っての不当逮捕と逮捕した住民の南部の砂漠地帯の収容所への移送を指示した容疑に問われた。 ラマダーンは一連の容疑を全面否認して無罪を主張、検察側と鋭く対立した。一方で、サッダームの罪状を軽くするため、ラマダーンに不利な証言をした弁護側証人のハーミド・ユースフ・ハンマーディー元文化相を怒鳴りつける場面もあった。弁護側はラマダーンが政権内で「経済政策」にしか権限が与えられておらず、治安問題は管轄外だと主張した。 2006年11月5日、高等法廷はラマダーンに対し、「人道に対する罪」で終身刑の判決を下した。12月の控訴審では、「刑が軽すぎる」との判断が下され、2007年2月12日、二審において、ラマダーンに対して絞首刑による死刑判決を言い渡した。判決に対してラマダーンは「私は神に誓って無実潔白だ。私が頼りにする神よ。私に不正を下した者に復讐されんことを」と語った。 3月20日、夜明け前にラマダーンは米軍からイラク当局に身柄を引き渡され、刑執行所に連行された。死刑立会人によると、執行前、ラマダーンは明らかに怯えた様子で、周囲に後悔の念を話したという。死刑に立ち会った個人弁護士によると「穏やかで冷静だった。彼は自分の家族と友人のために一緒に祈るように頼んだ。死を恐れている様子は無かった」と話している。 弁護士に遺書を手渡すと、刑台に向かい、刑執行直前にシャハーダを唱えた。午前3時5分、刑が執行された。69歳だった。 その後、弁護士に衣服と遺品が手渡された。ラマダーンの息子アフマドによると遺体は故郷のモースルでは無く、ティクリートに埋葬されると語った。21日、ティクリート近郊アル=アウジャにあるサッダームらも埋葬されている墓地に葬られた。
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ドゥジャイル事件裁判
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「アワド・ハマド・バンダル」の記事における「ドゥジャイル事件裁判」の解説
サッダーム・フセイン政権崩壊後、イラク特別法廷(現・高等法廷)により1982年に起きたドゥジャイル事件について、「ドゥジャイル村民143人に不当に死刑判決を下した」とジェノサイド罪などで訴追され、逮捕される。 2006年10月、初公判の人定質問でバンダルは、『私の身分証明書はクーフィーヤだ。(入廷前に)クーフィーヤを取り上げられたので、私には身分証が無い』と裁判長に訴え、人定質問に抵抗した。 検察側は、バンダルがわずか一週間程度の審理で被害者たちに判決を下し、逮捕されたドゥジャイルの少年35人にも容赦なく死刑判決を下して彼らを死に追いやったと非難してバンダルに死刑を求刑した。 これについてバンダルは、『自分は当時のイラクの法律を順守し、命令に従っただけ。』『裁判の被告には権利が保障され、弁護人も付いていた』と容疑を否認、少年に死刑判決を下したことを否定すると共に「私が未成年者に判決を下さなかったのは自分の良心に従ったからだ」と述べ、無罪を主張した。 2006年11月7日、イラク高等法廷は絞首による死刑判決を言い渡した。判決文を朗読中、バンダルは「神は偉大なり」等と叫び続けた。当初はサッダームと共に刑が執行される予定だったが、延期された。 2007年1月15日、バグダードの刑執行所にて午前3時05分、共同被告のバルザーン・イブラーヒームとともに死刑が執行された。60歳没。遺体は故郷バスラでは無く、ティクリート近郊のアル=アウジャの墓地にバルザーンと共に埋葬された。 バンダルは、ドゥジャイル事件以外にも、イラク北中部のバラドで政治犯に死刑判決を下した容疑にも問われていた。
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