ドゥシャン法典
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ドゥシャン法典(ドゥシャンほうてん、Душанов законик)は、14世紀にセルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンが制定した法典。
概要
1349年に招集された会議(サボル)において発布された(1353年または54年に増補版が発布された)。教会の地位、貴族や隷属民の権利と義務、刑法などを含む全201条によって構成されており、セルビアの慣習法と、ビザンツ帝国の成文法であるローマ法を融合させたものであった。この法典を通じて貴族の封建的な土地支配が認められたため、封建貴族と王との関係が強化された。
外部リンク
ドゥシャン法典
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詳細は「ドゥシャン法典」を参照 『ドゥシャン法典』は2度の国会で制定されたものであり、1度目は1349年5月21日のスコピエにて、2度目は1354年のセレスにてであった。セルビアの慣習法と東ローマ法(英語版)の両側面を持つ同法典はすべての社会領域を規制したため、中世の憲法と見なされる。法典はローマ法や東ローマ法に基づく201条を含む。司法の独立を制限した172条と174条の法の移植(英語版)は注目に値すべきであり、それらは東ローマ法のバシリカ(英語版)(book VII, 1, 16-17)から受け継がれた。同法は1219年にセルビア大主教サワにより制定された初のセルビア憲法ザコノプラヴィロ(英語版)に起源を持つ。ザコノプラヴィロは、ローマ法や教会法、公会議に基づく大陸法の編集物であった。その基本目的は、帝国とセルビア正教会の機能を体系化することにあった。 その法律は、貴族階級の原理で貴族と農民の大幅な差異を築いた、当時の西ヨーロッパにおいて普及していた封建制との共通点がある。君主は広範な権限を有していたが、有力者や司教からなる常設評議会に囲まれ、助言を受けていた。宮廷、書記官、行政は、コンスタンティノープルのものをおおまかにコピーしたものであった。
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