トップスターへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 20:23 UTC 版)
1948年(昭和23年)、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}高田浩吉と大曾根辰夫監督の尽力で[要出典]松竹入り。芸名の「鶴田浩二」は師匠の「高田浩吉」に由来する。映画界へ身を投じたものの、最初は大部屋に入れられた。いくつかの映画に端役で出演したが、すぐに頭角を現し、長谷川一夫主演の松竹『遊侠の群れ』で本格デビュー。1949年(昭和24年)、『フランチェスカの鐘』で初主演。佐田啓二、高橋貞二と共に松竹「青春三羽烏」と謳われヒットを連発。 1950年代に入っても甘い美貌と虚無の匂いを漂わせスター街道を上り続け、芸能雑誌『平凡』の人気投票で、2位の池部良、3位の長谷川一夫を大きく引き離しての第1位になる。マルベル堂のプロマイドの売上も1位となる。甘い二枚目からサラリーマン、侍、軍人、殺し屋、ギャングに至るまで幅広くこなす。 高田浩吉主催の打ち上げパーティ宴席で高田は必ず「『締めを鶴田、歌え』、歌い終わると『相変わらず下手だな、皆さん酔いが醒めたところでお開きにしましょう』」だったのが実は歌の訓練の親心だった。 1952年(昭和27年)には戦後の俳優の独立プロ第1号となる新生プロ(クレインズ・クラブ)を興した。SKD(松竹歌劇団)のトップスター、ターキーこと水の江瀧子らが所属タレントとなった。恋人と噂された岸惠子と共演した、戦後初の海外ロケ映画『ハワイの夜』(新生プロ制作)も大ヒット。戦後最大のロマンスといわれた人だが、岸が所属する松竹はそれを許さなかった。鶴田は自殺未遂事件を起こす。同年、「男の夜曲」で歌手デビュー。歌手としてもヒットを飛ばし戦後の日本を代表する大スターとなっていく。
※この「トップスターへ」の解説は、「鶴田浩二」の解説の一部です。
「トップスターへ」を含む「鶴田浩二」の記事については、「鶴田浩二」の概要を参照ください。
トップスターへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 08:17 UTC 版)
「マーロン・ブランド」の記事における「トップスターへ」の解説
『乱暴者』(1953年)で反抗的な若者を演じ、新しいタイプのスターとして注目を浴びる。イギリスなどでは、この映画は反社会的とされ上映が禁止されたが、ブランドの革ジャンとジーンズでオートバイにまたがる写真を見た世界中の若者が、そのスタイルを真似るようになる。そんな若者の中にはエルヴィス・プレスリーやビートルズなど、後に有名になる者もいた。 1954年に、カザンの『波止場』で港湾労働者を演じ、遂に初となるアカデミー主演男優賞を獲得し、名実共にトップスターになる。しかしながら、翌年には育ての親ともいえるカザンの大作『エデンの東』の主役のオファーを蹴った。これはカザンが、当時アメリカを吹き荒れていた赤狩りの追及に負けて同じような容共的な仲間をジョセフ・マッカーシー率いる非米活動委員会に告発したことに対して憤慨していたからという。この映画でジェームズ・ディーンがスターとなった。
※この「トップスターへ」の解説は、「マーロン・ブランド」の解説の一部です。
「トップスターへ」を含む「マーロン・ブランド」の記事については、「マーロン・ブランド」の概要を参照ください。
- トップスターへのページへのリンク