マネージャーとしてのブラッシー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 09:16 UTC 版)
「フレッド・ブラッシー」の記事における「マネージャーとしてのブラッシー」の解説
ロサンゼルス時代後期にザ・コンビクトのプレイング・マネージャーを経験していたブラッシーは、現役引退後はWWWFにおいて本格的にマネージャーに転向し、ヒールの司令塔となって活躍した。スタン・ハンセンやハルク・ホーガンも、リング上で自分をどう見せるべきか、ブラッシーのアドバイスを受けてトップスターへと導かれた。最初に担当したニコライ・ボルコフは、ソビエト連邦出身の共産主義者というギミックをWWWFから与えられたが、ユーゴスラビアからの亡命者であった彼は共産主義を嫌悪していた。しかし、ブラッシーから「お前が悪者の共産主義者を演じれば、観客も共産主義を嫌いになる」などと諭され、このギミックを受け入れたという。 1976年6月26日に行われたアントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦では、ブラッシーはスペシャル・アドバイザーとしてアリ陣営に加わったが、ヒールのマネージャーとしての彼の役割を理解していなかった猪木側の人間からは、プロレス界を裏切ったなどと見当違いの反感を買った。もともとプロレスファンだったモハメド・アリは、ブラッシーとは1960年代にロサンゼルスで邂逅しており、幼い頃のお気に入りだったゴージャス・ジョージのフォロワーであるブラッシーのマイクパフォーマンスから、記者会見でのビッグマウスなど試合を盛り上げるための技法を学んでいた。
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