スターシステムの確立
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1980年代からスターシステムが確立し、組の主演者が主演男役(トップスター)に固定される。トップスターへ昇格するためにはさまざまな条件を満たす必要があり、ファンは誰がスターになるか予想し、長期的に応援し易くなった。 同時に、私設ファンクラブの活動も活発になる。1980年代初頭までは、劇団員に手渡しで飲食物の差し入れをする・劇団員がその場でファンを喫茶に誘うなど、団員とファンは近い存在だったことが伺えるが、現在はこのような行為はない。集団の過剰な拍手が機関誌の投書欄で問題視されることも多い。出演者へのかけ声も禁止されている。 組替えがあるもののスターの地位が固定されることで、トップスターとトップ娘役だけでなく二番手男役スターとの掛け合いやコンビーネーションも人気を集め、雪組の麻実れい・寿ひづる・遥くららの3人はゴールデントリオと謳われた。 各組の特色も徐々に明確化され、特に昭和末から平成初期は「ダンスの花組」「芝居の月組」「日本物の雪組」「コスチュームの星組」と呼ばれた。 1982年に、トップスター松あきら・二番手男役寿ひづるがともに『夜明けの序曲』で退団する。観客と一体となった舞台の熱気はすさまじく、芸術祭大賞を受賞した。 1984年に、星組の大劇場ヒロインに湖条れいかが抜擢され、すでにトップ娘役の地位にあった南風まいとともに1986年までWトップ娘役体制となる。 1985年に、月組トップコンビの大地真央・黒木瞳が同時に退団した。以後、トップスターとその相手役が同時退団することは珍しくなくなったが「いい部分を次代のスターに継承できない」との批判もある。 1986年に、星組公演『レビュー交響楽』で126人のラインダンスを披露し、これが最多規模の実施である。 1987年に『ミー・アンド・マイガール』を日本で初演したのちに同一キャストで再演し、現行の公演システムで唯一のロングラン例である。 1989年(昭和64年 - 平成元年)1月7日に昭和天皇の崩御を受け、当日と翌日の全公演を中止し、大喪の礼当日の2月24日も公演を中止した。同年から“20世紀最後”と銘打った『ベルサイユのばら』の再演が開始され、1970年代の初演に対し「平成のベルばら」と称される。1991年に、月組『ベルサイユのばら』(主演:涼風真世)を皇太子徳仁親王が観劇した。 1992年に、雪組『忠臣蔵〜花に散り雪に散り〜』で宝塚大劇場を閉場した。1993年に新・宝塚大劇場が開場した。こけら落とし公演は『宝寿頌』『PARFUM DE PARIS』であった。春日野八千代のほかに各組のトップスターが日替わりで出演し、高田賢三デザインの衣装も話題となる。高田はメイク・靴なども担当したことから大きく影響し、本公演を境に舞台メイクがよりナチュラルへ変化した。 1995年1月17日に、阪神・淡路大震災が発生した。劇団員に犠牲者は無かったが、本拠地の公演中止を余儀なくされて3月31日から『国境のない地図』で公演を再開したが、以後の観客動員数は大幅に低下し、元の水準に戻ったのは2001年である。 1996年、『エリザベート』を雪組が一路真輝の主演で日本で初演する。「死神」の暗いイメージに前評判は今ひとつだったが、初日が開いた途端に絶大な支持を集める大ヒット作品となった。その後も複数回再演され、定番の演目の一つとなった。
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