テレビドラマに進出
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当時の岡田茂東映京都所長が、同撮影所の改革として時代劇映画をテレビに移し、映画は任侠映画を中心とするラインナップに変更する。 岡田が「時代劇に固執するものは一人もいらないんだ」などと強行に改革を進めたため、里見は時代劇映画を守ろうと中村錦之助 (萬屋錦之介)や東千代之介らと1965年5月9日、東映の俳優組合(東映俳優クラブ組合)を結成した。しかし組合活動は上手くいかず、「任侠路線は自分には似合わない」と活動の場をテレビ時代劇に移す。このときは岡田と反目に回ったが、「私は岡田茂さんに育てて頂いた」と述べている。 里見は1967年の東映・関西テレビ製作の『仮面の忍者 赤影』を始め、数々のテレビ時代劇に出演するようになる。だが映画の頃とは打って変わって四番手ないし五番手の役が多くなり、1970年には芸名を「里見浩太郎」から「里見浩太朗」に改名。時代劇のみならず、刑事ドラマやアクションドラマにも出演した。 1971年5月にナショナル劇場(現・パナソニック ドラマシアター)『水戸黄門』第3部(TBS、C.A.L)(放送は同年11月29日)で杉良太郎に代わり、2代目佐々木助三郎に就任。1982年7月8日の東野英治郎の降板を受け自身も降板を考えたが逸見稔の強い希望で残留する。1987年11月26日の第17部収録終了(最終回は1988年2月22日に放送)をもって降板。足かけ16年半、457回にわたる活躍だった。 1974年、『大江戸捜査網』にて久々に主演を務め、以降『長七郎天下ご免!』、『長七郎江戸日記』、『松平右近事件帳』など幾多のテレビ時代劇作品で主演を務め、時代劇俳優の地位を不動のものとする。主演作品では主題歌も数多く担当している。1985年から93年にかけて、年末に放送されていた日本テレビ系列の『年末時代劇スペシャル』では、最多の6度主演している。 「時代劇の殺陣がどんどん激しくなっていくのとは対照的に、かつての市川右太衛門的な立ち回りを復権させようと、舞い踊るような美しい殺陣を見せており、市川の華麗な部分と片岡千恵蔵的な重厚な芝居と併せ持つ、東映時代劇の申し子」と評されている。 2002年10月14日より放送開始したナショナル劇場『水戸黄門』第31部に、病気降板した石坂浩二に代わる5代目水戸光圀役として14年ぶりに復帰。また、ゲスト出演での共演を含め、シリーズ歴代の佐々木助三郎・渥美格之進役全員との共演を果たしている。2011年12月19日の第43部『最終回スペシャル』をもって42年にわたるシリーズの一時終了が決定した際の記者会見では、「ズバッと後ろから斬られた感じ。残念というよりも、痛い。」と語っている。 『大江戸捜査網』以降テレビ時代劇では、長年にわたり勧善懲悪作品の主演を専らとしてきたが、1993年の『炎立つ』への出演を皮切りにNHK大河ドラマにも出演するようになった。
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