テニスンとリヴァイヴァル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 04:32 UTC 版)
「アーサー王」の記事における「テニスンとリヴァイヴァル」の解説
19世紀初頭になると、中世趣味、ロマン主義、ゴシック・リヴァイヴァルによってアーサーと中世のロマンスに対する関心が高まった。19世紀の紳士達の新しい行動規範は、アーサー王ロマンスに描かれた騎士道に沿って作り出されたのである。最初にこの新たな関心が呼び起こされたのは、1634年以来印刷されていなかったマロリーの『アーサー王の死』が再版された1816年である。中世のアーサー王伝説に最初に特別な関心を示し、インスピレーションを受けたのは詩人だった。たとえば、ウィリアム・ワーズワースは聖杯の寓話である『エジプト人のメイド』を書いた。彼らのうちもっとも卓越していたのはアルフレッド・テニスンで、彼は1832年に最初のアーサーに関する詩『シャロットの貴婦人(Lady of shalott)』を出版した。中世のロマンスと同じくこれらの詩でアーサー自身が演じた役割はけして大きくなかったが、テニスンは『国王牧歌(Idylls of the King)』をもってその人気が頂点に達した。『国王牧歌』はアーサーの生涯をヴィクトリア時代に合わせて改作したものである。初めて出版されたのは1859年で、初週で1万部を売り上げた。この作品のアーサーは理想の男性像の象徴で、彼は完璧な王国を地上に建設しようという試みるが最終的に人間の弱さによって挫折する。すぐに『国王牧歌』の模倣が大量に作られるようになり、アーサー王伝説と彼に対する広い関心を呼び起こした。マロリーの『アーサー王の死』にも多くの読者をもたらした。『国王牧歌』のすぐ後の1862年にマロリーの大作を現代風にアレンジした最初の作品が出版され、19世紀中にさらに6種類の版(エディション)と5種類の類似作品が出版された。 ロマンス的なアーサーと彼の物語に対する関心は世紀をまたいで20世紀まで続き、詩人ウィリアム・モリスや画家エドワード・バーン=ジョーンズなどのラファエル前派が影響を受けた。18世紀に最も知られたアーサーものだった滑稽譚『親指トム』ですら『国王牧歌』を受けて書き直された。新しいバージョンではトムはかわらず小さいコメディ・リリーフであり続けているが、中世のアーサー王ロマンスの要素が話に付け加えられ、アーサーは以前より真面目で、歴史性の強い人物として扱われている。アメリカ合衆国もまたリヴァイヴァルの影響を受け、シドニー・ラニアの『少年向けアーサー王物語』(1880年)などが多くの読者を得た。また、これに着想を得たマーク・トウェインは風刺小説『アーサー王宮廷のコネティカット・ヤンキー』(1889年)を書いた。これらの新たなアーサー王関連の作品ではアーサーが主役になることが何度かあったものの(たとえばバーン=ジョーンズの絵画『アーサー王のアヴァロンでの最後の眠り』)、往々にしてアーサーは中世の頃の役割に戻され、脇役に甘んじたり登場すらさせてもらえない有様だった。リヒャルト・ワーグナーのオペラ(『トリスタンとイゾルデ』、『ローエングリン』、『パルシファル』)は後者の好例である。また、人々のアーサーとアーサー王物語への興味がずっと続くことはなかった。19世紀の終わりまでにはアーサー王伝説に関心を持つものはラファエル前派の模倣者に限られるようになった。加えて、第一次世界大戦の影響を避けることは出来なかった。大戦によって騎士道の名声は傷つき、理想の騎士としてのアーサーと中世的な理念に対する関心も色褪せてしまった。それでもロマンスの伝統は維持され、トマス・ハーディ、ローレンス・ビニヨン、ジョン・メイスフィールドがアーサー王の戯曲を書いた。T.S.エリオットは詩『荒地』に漁夫王を登場させ、アーサー王伝説をほのめかした(ただしアーサー王自身は登場しない)。
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