チュシ・ガンドゥク成立とダライ・ラマ14世の亡命
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「カム反乱」の記事における「チュシ・ガンドゥク成立とダライ・ラマ14世の亡命」の解説
詳細は「キャンプ・ヘール」を参照 アムド・カム東部における蜂起の成功は一時的なものにおわり、敗残のゲリラたちは、大量の難民とともに、ガンデンポタンの統治下でまだ平穏をたもっていた中央チベット(チベットの西蔵の部分)に逃げこんだ。 カンパ、アムド、ゴロクなどから構成される各地のゲリラたちはリタンの有力部族の首領ゴンボ・タシをリーダーとして、兵力数千騎を擁する統一抵抗組織を作り、「チュシ・ガンドゥク」と名づけた。名前の由来はアムドとカムを指す「四江六山」である。各部族の活動領域、指揮官、装備、攻撃目標選定などについて合意した。 この組織は、一方でアメリカ中央情報局(CIA)とも接触して援助を依頼した。CIAは反共産政策の一環として、チベット人にゲリラの訓練を受けさせることに合意した。このチベット・プロジェクトは「セイント・サーカス作戦(ST Circus)」というコードネームを与えられた。ゴンボ・タシは6人のチベット人の若者を選んで隣国のインドに送り込み、1957年2月20日には、CIAの導きで東パキスタン(現バングラデシュ)に潜入させた。6人は太平洋の島サイパン島に移され、5ヶ月の間ゲリラとして最新設備の使い方を含めた専門訓練を受けた。そして1957年10月の初め、B-17爆撃機で秘密裏にインド上空を通過し、パラシュートでチベットの地に降り立った。このとき日本の嘉手納基地を経由している。2人がラサ西部のサムイェー、3人が東チベットのリタンに送り込まれた。彼らはその後もCIAと連絡を取り、アメリカからの物資調達にあたった。 キャンプ・ヘールでは、全部で約259人のチベット人が訓練を受けた。その一部は、パラシュート降下で、(最も疲弊した)各地のレジスタンス・グループと合流した。他は、陸路でチベットに送られ、情報収集の任に就いた。また中には、北ネパールのムスタン郊外で、CIAの資金援助によるチベット・レジスタンス軍を創設するために尽力した者もいた(1959~1974年)。 ダライ・ラマは平和主義の精神から武力行使を容認できず、また失敗すると信じていたために1957年にゴンポ・タシの支援を断っている。 チュシ・ガンドゥクは4月にラサで、ダライ・ラマを守護する時がきたときに中国人民解放軍に挑む攻勢作戦か、それともチベット各地でゲリラ活動を続ける防勢作戦かを仏前のくじ引きで選び、前者と決まった。ゴムポ・タシの指揮下に「国民志願防衛軍」が組織され、インドから多くの装備を調達したが、それでも物資の不足は深刻であった。しかし1957年初頭には、国民志願防衛軍が攻勢をしかけ、中国人民解放軍の前哨地点を襲撃して圧倒していた。 チュシ・ガンドゥクはゲリラ軍であり、部隊の細かい動きはゴンボ・タシでさえ分からなかった。時にはチベット民衆から略奪を働くことさえあったが、そのような部隊は容赦なく射殺された。人民解放軍がチュシ・ガンドゥクにスパイを送り込むこともあったが、すぐに発覚して処刑された。 1958年末に中国は、中央チベットのラサやシガツェに住む東チベット人に対して故郷に戻るよう布告を出し、従わないものは強制送還した。中国はダライ・ラマ14世にも反乱軍を鎮圧するよう命令したが、下手にガンデンポタンの正規兵を派遣すると、ゲリラ組織に合流する危険性が高かったため、ダライ・ラマ14世はこれを断っている。 事態の悪化につれてチベットの民衆の間では、ダライ・ラマ14世が中国に拉致されるという噂が流れ、ついに1959年3月10日、1959年のチベット蜂起を呼ぶこととなり、ダライ・ラマ14世が中国人民解放軍の目を逃れてインド国境に向けてラサを脱出すると、中国人民解放軍は3月24日にラサを攻撃して多くのチベット仏教寺院が破壊され、これに反発してチベット人の一部が武装して反乱を起こした。この反乱はチベットの正月と祭典で人が多かったことから2万5000名の僧侶が拘束された。 1959年から1960年代半ばまでに亡命したチベット人は8万人である。
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