スペイン・ハプスブルク朝
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- スペイン王国
- Reino de España
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(国旗) (国章) -
イベリア半島の地図(1570年) -
宗教 カトリック 首都 マドリード(1516年 - 1601年、1606年 - 1700年)
バリャドリッド(1601年 - 1606年)- 国王
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1516年 - 1556年 カルロス1世 1665年 - 1700年 カルロス2世 - 変遷
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カルロス1世の即位 1516年1月23日 オランダ独立戦争 1568年 - 1648年 イベリア連合 1580年 - 1640年 フランス・スペイン戦争 1635年 - 1659年 ポルトガル王政復古戦争 1640年 - 1668年 カルロス2世が死亡 1700年11月1日
通貨 スペイン・レアル
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スペイン・ハプスブルク朝は、16世紀から18世紀にかけて、ハプスブルク家のスペイン分家の王が支配した広大な領土[注釈 1]を指す現代史学用語である[注釈 2]。ハプスブルクのスペイン語名によりアブスブルゴ朝とも呼ばれる。
ハプスブルク家のスペインは複合君主制であり、同君連合であった。ハプスブルク家のスペイン系君主[注釈 3]は、スペイン帝国を支配し、その影響力と権力の頂点に達した。彼らはアメリカ大陸、東インド、ヨーロッパのネーデルラント、ベルギー、ルクセンブルク、イタリア、フランス、ドイツ、1580年から1640年までのポルトガル帝国、北アフリカのセウタやオランといった小さな飛び地を含む五大陸にわたる領土を支配した。スペインの歴史でこの時期は「拡大の時代」とも呼ばれる。
ハプスブルク家とともに、スペインは16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパのみならず世界でも有数の政治・軍事大国となったのである。ハプスブルク家の時代、スペインは芸術と文学の黄金時代を迎え、アビラのテレサ、ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ、ミゲル・デ・セルバンテス、フランシスコ・デ・ケベード、ディエゴ・ベラスケス、エル・グレコ、ドミンゴ・デ・ソト、フランシスコ・スアレス、フランシスコ・デ・ビトリアなど世界で最も優れた作家、画家、有力知識人が輩出した。
スペインあるいは「スペイン人」とは、この時代、異なる大陸にまたがるスペインの領土を指し、当初はアラゴン、バレンシア、カタルーニャ君主国、カスティーリャ、レオン、ナバラ、そして1580年以降はポルトガルといった王国を含むイベリア半島全域を指していた。
1469年のカスティーリャのイサベル1世とアラゴンのフェルナンド2世の結婚により、カスティーリャとアラゴンの2大王家が統合され、1492年のグラナダ征服、1512〜1529年のナバラ征服というレコンキスタの頂点に立ち、やがて事実上のスペイン統一が実現したのである。イサベルとフェルディナンドは1494年に教皇アレクサンデル6世から「カトリック王と女王」の称号を授与され[1]、これによりスペインの君主制を表す「モナルキア・カトリカ(カトリック王制、現代スペイン語:Monarquía Católica)」という言葉が誕生し、ハプスブルク朝でも使われ続けることになった。
1700年にスペイン・ハプスブルク朝の最後の王カルロス2世が死去し、その結果起きたスペイン継承戦争でブルボン家のフェリペ5世が即位し、新たな中央集権的な国家形成が始まった。
歴代君主
- フェリペ1世(カスティーリャ王、フアナと共同統治:1504年 - 1506年) ※当時は僭称と見なされた。
- カルロス1世(1516年 - 1556年) 神聖ローマ皇帝(1519年 - 1556年)
- フェリペ2世(1556年 - 1598年) ポルトガル国王(1580年 - 1598年)
- フェリペ3世(1598年 - 1621年) ポルトガル国王
- フェリペ4世(1621年 - 1665年) ポルトガル国王(1621年 - 1640年)
- カルロス2世(1665年 - 1700年)
近親婚
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スペイン・ハプスブルク家およびオーストリア・ハプスブルク家では、一族内での近親婚が繰り返された。また、フェリペ2世以降は3親等間での結婚(叔姪婚)が増える。それには以下の要因があった。
結果、縁組できるのはフランス王家、ポルトガル王家、ボヘミア=ハンガリー王家、ポーランド=リトアニア王家、オーストリアの同族のいずれかに絞られることになった[注釈 4]。しかし、フランスとは三十年戦争以来敵対関係になり、ポルトガル王家はフェリペ2世以後スペイン王家と同一に、ボヘミア=ハンガリー王家はフェルディナント1世以後オーストリアの皇帝家と同一になり、ポーランド=リトアニアではヴァーサ家の断絶後は王位の世襲が絶えて特定の「王家」が存在しなくなった。そのため、オーストリア・ハプスブルク家との間での結婚、つまりフェリペ1世の息子カルロスとフェルディナントの子孫の間で近親婚が繰り返された[注釈 5]。その結果フェリペ4世の子のカルロス2世は遺伝子系の疾患を持って生まれて早世、後継ぎもなく断絶したと言われる[2]。
スペイン・ハプスブルク家の近親婚の程度を示す近交係数をコンピュータで計算してみたところ、初代フェリペ1世のときには0.025だった数値が、末代のカルロス2世では0.25にまで上昇していた。その間に行われた11組の結婚のうち、9組が叔姪婚であった。また、0.2以上の近交係数の王族も複数いたことが判明している。スペイン・ハプスブルク家内の乳児死亡率は、当時の農村部の乳児死亡率より高かった。
スペイン王カルロス2世の先祖 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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脚注
注釈
- ^ 現代のスペイン、フランス南東部の一部、イタリアの主に南部、最終的にはポルトガル、その他イベリア半島以外の多くの土地を含む。
- ^ 中・東欧史におけるその役割も関連している。
- ^ 主にカルロス1世とフェリペ2世
- ^ これはスペイン・ハプスブルク家に関して、しかも末期を除いてであり、オーストリア・ハプスブルク家は分家が比較的多く縁組の選択肢となりえた(当然ながら近親婚となる)他、バイエルン系ヴィッテルスバッハ家(皇帝を出している)や、家格が高いとは言い難いゴンザーガ家(ただしハプスブルク家とは色濃い血縁関係があった)、プファルツ=ノイブルク家(プファルツ系ヴィッテルスバッハ家の分家、のち選帝侯位を継ぐ)、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家(プロテスタント諸侯の家系、2系統の一方に新設の選帝侯位が与えられた)からも妃を迎えている。プファルツ=ノイブルク家からはカルロス2世妃マリアナも出ている。
- ^ しかもカルロス1世の代ですでにいとこ婚を行っている。
出典
- ^ Kamen, H. (2005). Spain 1469–1714: A Society of Conflict. Routledge:Oxford. p. 37
- ^ “スペイン・ハプスブルク家、断絶の原因は「近親婚」か 研究結果”. AFPBB News (マドリード/スペイン). (2009年4月16日) 2011年10月14日閲覧。
関連項目
スペイン・ハプスブルク家(1504年 - 1700年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/12 17:25 UTC 版)
「スペインの国章」の記事における「スペイン・ハプスブルク家(1504年 - 1700年)」の解説
イザベル1世の死後、フェリペ1世(フィリップ美公)は即座に自らの権利を主張し、カスティーリャ王を僭称した。その際、カトリック両王の紋章を自らの紋章に取り込んだ。彼の紋章の成り立ちはクォータリーの形式で以下の通り。 左上と右下はカトリック両王の紋章。 右上と左下はグランド・クォータリーの形式で左上にオーストリア、右上に古代ブルグント王国の紋章、左下にブルゴーニュ公国、右下にブラバント公国の紋章。 右上と左下の中央には、パー・ペイルの形式でフランドル伯とチロルの紋章を組み合わせたものを配置。 カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)は時代が進むにつれて自らの紋章を変えていった。治世最初の年は、父フィリップ美公と同じ紋章を用いた。1519年に神聖ローマ皇帝に選ばれた後、その紋章を戴冠した双頭の鷲の胸に配置したものを新たな紋章とした。伝統的に神聖ローマ皇帝は双頭の鷲を紋章としていたためである(ドイツの国章を参照)。その後、その紋章を簡略化し、パー・フェスの形式で上部にカトリック両王の紋章、下部にオーストリアの紋章を配置したものを作成した。このバージョンはネーデルラントで人気があった。そのうち、金羊毛騎士団の勲章が盾を囲むように配置されるようになった。 カルロス1世の長い治世で、たくさんのバリエーションの紋章が作られている。アラゴン地方の領土の変遷が紋章にも反映されている。1520年には、カトリック両王の紋章部分の右上と左下(アラゴンとシチリア)が、ティアスト・パー・ペイルの形式でアラゴン、エルサレムとハンガリーの紋章が組み合わさったものに置き換えられた。1530年以降のバージョンはクォータリーの形式で以下の通り。 左上と右下はグランド・クォータリーの形式で左上と右下にカスティーリャとレオン、右上と左下にパー・ペイルの形式で、左側がアラゴンとナバラ、右側がエルサレムとハンガリーの国章を組み合わせたもの。 右上と左下がオーストリアの紋章の下部にグラナダの国章を配置したもの。 戴冠した双頭の鷲の胸に配置され、金羊毛騎士団の勲章が盾を囲むように配置されている。 両脇にヘラクレスの柱が配置され、PLUS ULTRA(プルス・ウルトラ)の文字が記されている。 他方シチリアでカルロス1世が用いた紋章はクォータリーの形式で以下の通りである。 左上と右下はカスティーリャとレオンの紋章を組み合わせたもの。 右上はティアスト・パー・ペイルの形式でアラゴン、エルサレム、ハンガリーの紋章を配置したもの。 右下はパー・ペイルの形式でアラゴン、シチリアの紋章を配置、その下部にグラナダの国章を配置したもの。 戴冠した双頭の鷲の胸に配置されている。 晩年に用いた紋章はクォータリーの形式で以下の通りである。 左上はカスティリャとレオンの紋章を組み合わせたもの。 右上はグランド・クォータリーの形式で左上と右下にアラゴン、右上にシチリア、右下にナバラの紋章を組み合わせたもの。 左下はオーストリアの紋章。 右下はパー・ペイルの形式でエルサレムとハンガリーの紋章を組み合わせたもの。 全体の下部にはグラナダの紋章を配置し、背後には戴冠した双頭の鷹を配置した。
※この「スペイン・ハプスブルク家(1504年 - 1700年)」の解説は、「スペインの国章」の解説の一部です。
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