マリア・アンナ・フォン・シュパーニエンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > マリア・アンナ・フォン・シュパーニエンの意味・解説 

マリア・アンナ・フォン・シュパーニエン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/29 00:28 UTC 版)

マリア・アンナ・フォン・シュパーニエン
Maria Anna von Spanien
神聖ローマ皇后
在位 1637年2月15日 - 1646年5月13日
別称号 ハンガリー王妃
ボヘミア王妃
オーストリア大公妃
スペイン王女
ポルトガル王女

出生 1606年8月18日
スペイン帝国エル・エスコリアル宮殿
死去 (1646-05-13) 1646年5月13日(39歳没)
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国リンツ
埋葬 神聖ローマ帝国
オーストリア大公国
ウィーン
カプツィーナー納骨堂
結婚 1631年2月26日 ウィーン、アウグスティーナ教会
配偶者 神聖ローマ皇帝フェルディナント3世
子女
家名 スペイン・ハプスブルク家
父親 スペインフェリペ3世
母親 マルガリータ・デ・アウストリア=エスティリア
宗教 カトリック教会
テンプレートを表示

マリア・アンナ・フォン・シュパーニエン: Maria Anna von Spanien, 1606年8月18日 - 1646年5月13日)は、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の皇后。

生涯

スペインフェリペ3世と王妃マルガリータの次女。スペイン語名はマリア・アナ・デ・エスパーニャ(María Ana de España)またはマリア・アナ・デ・アウストリア(María Ana de Austria)。姉にフランスルイ13世妃アナ(アンヌ・ドートリッシュ)、兄にフェリペ4世、弟に枢機卿フェルナンド

1620年代、イングランドジェームズ1世は、マリアを王太子チャールズ(後のチャールズ1世)の花嫁に迎えたいと考えた。早速マドリードへチャールズを送り込み求婚させるが、チャールズ自身の堅物な性格と、寵臣バッキンガム公の不遜な態度が災いし、婚約に至らなかった。

1631年、母方の従弟フェルディナント大公と結婚し、6子を生んだ。

1646年、39歳でリンツで亡くなった。




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  マリア・アンナ・フォン・シュパーニエンのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マリア・アンナ・フォン・シュパーニエン」の関連用語

マリア・アンナ・フォン・シュパーニエンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マリア・アンナ・フォン・シュパーニエンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマリア・アンナ・フォン・シュパーニエン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS