ヴィルヘルム5世_(バイエルン公)とは? わかりやすく解説

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ヴィルヘルム5世 (バイエルン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/11 16:39 UTC 版)

ヴィルヘルム5世
Wilhelm V.
バイエルン公
在位 1579年10月24日 - 1597年10月15日

出生 (1548-09-29) 1548年9月29日
神聖ローマ帝国
バイエルン公領ランツフート
死去 (1626-02-07) 1626年2月7日(77歳没)
神聖ローマ帝国
バイエルン公領、オーバーシュライスハイム村、シュライスハイム宮殿
配偶者 レナータ・フォン・ロートリンゲン
子女 一覧参照
家名 ヴィッテルスバッハ家
父親 バイエルン公アルブレヒト5世
母親 アンナ・フォン・エスターライヒ
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バイエルン公ヴィルヘルム5世

ヴィルヘルム5世(Wilhelm V., 1548年9月29日 - 1626年2月7日)は、バイエルン公(在位:1579年 - 1597年)。アルブレヒト5世神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の娘アンナの子[1]

生涯

1583年、弟のエルンストをケルン大司教選帝侯)に選出させた。しかし、プロテスタントに転向していた前選帝侯ゲプハルト・トゥルホゼス・フォン・ヴァルトブルクがオランダなどプロテンスタント勢力の力を借りて反乱を起こしたため、ヴィルヘルム5世はエルンストに与してゲプハルトを追放、1588年にエルンストの選帝侯位を万全にした。これ以降、ケルン選帝侯は事実上ヴィッテルスバッハ家の世襲となっていった。

幼少期からイエズス会の教育を受けていた影響でバイエルンに対抗宗教改革をもたらし、カトリック系大学や聖ミヒャエル教会が設立されたが、財政は大幅に傾き、事態を危ぶんだ息子のマクシミリアンによって1597年に退位させられた。以後は信仰に余生を送った。

子女

1568年ロレーヌ公フランソワ1世の娘レナータと結婚した。彼女との間に10人の子をもうけた。

脚注

  1. ^ a b c d e Thomas 2010, Appendix C.

参考文献

先代
アルブレヒト5世
バイエルン公
1579年 - 1597年
次代
マクシミリアン1世



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