スキー選手時代
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小学校3-4年時、大鰐スキークラブ会長を務めた父の儀助に連れられ阿闍羅山で滑り始め、間もなく「学校で一番早かったから」自然な形で距離スキーに入っていった。 青森県立弘前高等学校で長利武記の指導を受け、2年時に全国高等学校総合体育大会ノルディックスキー・クロスカントリー男子15キロで優勝。同大会のリレーで弘高は優勝した。 大学・日本軽金属時代と2度の冬季オリンピック(1968年グルノーブル・1972年札幌)にクロスカントリーの日本代表選手として出場(いずれも当時は松岡姓)。1972年の札幌オリンピックを最後にスキー選手を引退。 ^ a b c d e f 『青森県人名事典』P974 ^ a b c d e f g h i j 青森放送株式会社 有価証券報告書(2012年04月01日 - 2013年03月31日 期)より、「役員の状況」節を参照。 ^ 外部リンクより、『バイオグラフィーとオリンピックでの成績』を参照。 ^ 7月19日(土)、雫石で東北稲門スキー倶楽部の懇親会がありました。 アーカイブ 2014年9月10日 - ウェイバックマシン - 『早稲田大学 稲門スキー倶楽部』2008年7月21日13:49 ^ a b c 『隔月刊あおもり草子』通巻219号P4-5掲載「報道記者時代の私」より、P5掲載のプロフィールを参照。 ^ a b c d e “とうおう写真館・あおもり110山 阿闍羅山”. Web東奥(東奥日報). (1999年2月3日). オリジナルの2014年4月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20140423042655/http://www.toonippo.co.jp/photo_studio/110mountains/tugaru/ajara/index.html 2014年6月20日閲覧。 ※『東奥日報』1999年2月13日付朝刊掲載記事の再録。長崎も青森放送東京支社長を務めた53歳当時に取材を受けており、スキー選手としての経歴もつづられている。 ^ 1968年・1972年冬季オリンピックにスキーの代表として出場したことは、『隔月刊あおもり草子』通巻219号P5掲載のプロフィールを参照。 ^ a b 『隔月刊あおもり草子』通巻219号P4を参照。 ^ a b c d 『隔月刊あおもり草子』通巻219号P5 ^ 県スキー連盟 新会長に長崎氏 - 『47NEWS』2012年11月19日付(ソース:東奥日報) ^ 第533回相談役・常議員会 - 『商工会議所かけはし』(青森商工会議所会報)2012年12月号 ^ 『青森県人名事典』P974掲載のプロフィールより、昭和48年(1973年)に青森放送へ入社したことが記されている。 ^ 『青森放送50年史』より、1973年の入社者リストに「長崎昭義」の名前あり。 ^ 『RABニュースレーダー』の7代目キャスターを務めていたことについては、『青森放送50年史』の中でも写真付きで紹介されている(P132参照)。 ^ 日経テレコンの人事情報検索より。 ^ 『青森県人名事典』P974掲載のプロフィールより、平成9年(1997年)より東京支社長を務めていることが記されている。 ^ a b 『青森放送50年史』では、P158の役員任期一覧において、平成12年(2000年)6月から取締役を務めていることが記されており、P159には平成16年(2004年)3月31日現在の取締役の一人として、顔写真付きで掲載されている。 ^ 『青森県人名事典』P974掲載のプロフィールより、平成12年(2000年)より取締役ラジオ局長を務めていることが記されている。 ^ 長崎昭義氏死去/青森放送会長 東奥日報 2017年9月5日(WEBArchives) ^ “元スキー代表で青森放送会長、長崎昭義氏死去 72歳”. 産経ニュース. 産業経済新聞社. (2017年9月4日). http://www.sankei.com/life/news/170904/lif1709040040-n1.html 2017年9月10日閲覧。
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